新修豊田市史編さん専門委員新修豊田市史 17 (別編 民俗Ⅲ)豊田市2017
P.90 工場や商家が集まるマチでは、商談や宴会などの場が必要であり、独特の接客文化が形成された。その舞台は料理屋である。昭和40年(1965)頃の拳母には「喜楽亭」「魚十」「澤屋」「福好」「喜多善」「大見屋」「魚兼」「住吉」「くろ猫」「清こま」などの料理屋があった。料理屋の宴会には、時には芸子がもてなし役として色を添えた。 P.91 喜楽亭は、店をしまった後、昭和57年にその建物が豊田産業文化センターの敷地に移転されており、贅を凝らした料理屋の建築を間近に見ることができる。創業は明治時代で、「土地の大地主が道楽で自分の土地で料理屋を始めたもの」とされるが、マチの発展に伴い、拳母にもこうした接客の場が必要となっていたと言える。現存する建物は、大正末期に建て替えられたもので、昭和30年代には、高松宮が宿泊をした由緒あるものである。離れに個室があったため、トヨタ自動車が大きくなっていった時期には、トヨタ自動車の関係者の人が商談としてよく利用していた。

この文献を参照している記事

豊田(「喜楽亭」跡)昭和57年に移築。創業は明治時代。
豊田(豊田花街跡)芸者置屋、稽古場があった袋小路。