生田原町: *生田原町史 (生田原町,1981)

交差点の角に、「ムーラン」、踏み切りの近くに「銀月」。

「カフェー日輪」の記載。
(現在の遠軽町生田原418)

P.524
鉄道開通と林業の勃興
大正3年、鉄道が開通すると、物資の需給は増大の一途をたどり、翌4年には200戸におよぶ集散地市街が形成されている。加えて第一次世界大戦の勃発は、空前の好景気をもたらし、上生田原市街では北区を「料理屋街」と称し、料理店や飲食店が軒をつらね、芸妓や酌婦48名をかぞえたという。
ところが、上生田原市街では大正9年5月4日、大火災が発生し、これが大戦景気の反動不況と重なって、一時商店街は潤落をみせた。
また、下生田原市街は、当時注目されていた旭網線(旭川~網走)鉄道分岐点問題が、無念にも遠軽に落着したことと、大戦景気の反動不況と重なって、転業するものも少なくないありさまといなった。
P.527
鉱山の盛業と商店街
大正10年代から昭和初期にかけて、第一次世界大戦後の経済不況と農業の断続冷害凶作で、商業界は低迷の苦境を余儀なくされたが、鉱山の操業という起死回生の天恵に救われ、再び活況を取り戻したのであった。北の王鉱山や生田原鉱山は、商店にとっては大きなうるおいであった。
・写真「生田原最初のカフェー」
・写真「女給さんとの行楽の写真」
鉱山が商店をうるおわせたことと符合するものに、サービス業、特に料理飲食店の繁昌があった。