日本文芸社荷風!vol.23日本文芸社2010.1
荷風の神田を往く
P.39 コラム講武所芸者 講武所とは、江戸幕府が武術修練のために設けた講習所で、もともと築地にあったのが現・三崎町(水道橋)に移転。幕府は講武所の運営費捻出のため、空き地(火除地(ひよけ)地)あった加賀原(かがっぱら、現在の秋葉原駅の万世橋通り)を町屋に編入して地代を取ったことから一帯が講武所上納代地、略して「講武所」と俗称された。この土地へは安政期(1854-59年)から芝居小屋などができ、芸者も姿を現したため、地名を冠して講武所芸者と称されるようになった。 P.38 夏・男坂・芸妓 花火の色の頬染め 時代は下り、戦後は講武所芸者という名称は一般には使われなくなり「神田明神下の芸者」と呼ばれるようになった。 元芸妓、諸岡さんは、昭和48年からは、料理屋「章太郎」を経営。戦後間もないころから同じ場所で置屋をやっていた。

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神田明神下(花街跡)安政期に芸者が出現。講武所芸者。