: *荷風!vol.23 (日本文芸社,2010.1)

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コラム講武所芸者
講武所とは、江戸幕府が武術修練のために設けた講習所で、もともと築地にあったのが現・三崎町(水道橋)に移転。幕府は講武所の運営費捻出のため、空き地(火除地(ひよけ)地)あった加賀原(かがっぱら、現在の秋葉原駅の万世橋通り)を町屋に編入して地代を取ったことから一帯が講武所上納代地、略して「講武所」と俗称された。この土地へは安政期(1854-59年)から芝居小屋などができ、芸者も姿を現したため、地名を冠して講武所芸者と称されるようになった。
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夏・男坂・芸妓 花火の色の頬染め
時代は下り、戦後は講武所芸者という名称は一般には使われなくなり「神田明神下の芸者」と呼ばれるようになった。
元芸妓、諸岡さんは、昭和48年からは、料理屋「章太郎」を経営。戦後間もないころから同じ場所で置屋をやっていた。

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看板建築は、関東大震災以後、急速に広がった商業建築で、防災を考慮して木造家屋の正面を銅板やタイル、モルタルなどで仕上げたもの。多くは2階屋で、3階部分に腰折れ屋根(マンサード)の屋根裏部屋をもtものが多かったが、これは木造3階建ての禁令をクリアするための抜け穴的構造だったらしい。柳原通りには、海老原商店をはじめ数軒の看板建築が残っている20年ほど前までは神田界隈には非常に多くの、それも奇想天外な意匠の物件がみられた。