京橋月島新聞社: 月島発展史 (京橋月島新聞社,1940) リンク

P.33 佃島の名称のこの島の漁師が塡築の後彼らの故郷たる摂州西成郡佃村を偲ぶために出身地名をとって「佃」と呼んだのに由来する。

P.191 日露戦争に因る軍需工業の躍進に伴って月島全島の好況と人口の増加を招来せしものと考えられる。 西仲通り一及至五丁目は、月島通の裏通りとして自然商家軒を並べ商店街たるの態容を備えるに至ったものである。月島西仲通り商店街の発展に先駆して活躍し連綿今日に至れるもに「露天商」がある。交通不便を極めたる填築初期に於いては、有力なる商人の発達はなく商品の供給をせしものは、主として露店商人であった。 P.197 明治39年頃、西仲通りに出る露天商が25~26人になり、内店の前に並んで店を出していたが、内店の邪魔をするようになったので、時の署長が「真ん中へだしたら良かろう」ということを言い出し、夜店が道の真ん中で出るようになった。

P.104 今日の大月島を理解せんとするには、明治二十年代以降に、填築(てんちく)せられたる、現在の月島第一、第二號地及新佃島の埋立経過をしらなくてはならぬ。 該埋立地は、東京府が始め明治十六年より同二十五年に至る十カ年計畫による東京灣澪浚渫(しゅんせつ)工事を行った附帯事業として填築せられたるものである。 P.106 浚渫工事は、明治二十八年頃迄に、大體(おおてい)完了し、明治における港灣改修工事史上劃期的大工事となれるものである。