豊島区史編纂委員会: *豊島区史 通史編 2 (豊島区史編纂委員会,1983)

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日露戦争頃より東京市隣接町村の都市開発は高まり、田畑は姿を消し、代わりに大塚周辺は宅地造成と勤め人でごったがえすようになった。こうした状況に比例して飲食店も増加し、大正期に入ると三業地要望の声も強まっていった。大正9年に看板を下げた「宮はま」は、そうした声を反映したものであった。清元の師匠として主席に出たのが契機となり大好評を博したたため、「宮はま」では、一軒で師匠(芸者のこと)を20余名も抱える盛況を呈した。やはり、芸妓と名乗り、待合と名のつくものがなくてはという要望が、大塚三業の指定地出願運動の開始となって現れた。
こうして、大正11(1922)年、巣鴨町字平松(現在の南大塚一丁目付近)の地(山の手線大塚駅前南口を出て線路沿い)に指定挙以下を受けて、大塚三業地がつくられることになった。