松竹秀雄ながさき稲佐ロシア村長崎文献社2009
いわゆる「ロシア村」
P.6 ロシアの作家グザーノフの文に「稲佐はロシアの船乗りにとっては昔から馴染みの土地であった...下級官吏あいての小さな安飲み屋などが出現して稲佐はロシア村と呼ばれるようになった」とあり、万永元年(1860年)5月、平戸小屋郷異国人休息所に宿泊中のロシア人4人が勝手に悟真寺に移り、同年7月から海軍士官の稲佐郷個人宅への止宿が始まり、同月稲佐郷個人宅の一部から「宿料高価に付」として船津浦漁師宅は勝手に移動して、船津浦の他の漁師宅へも止宿・借部屋が始まり、同年8月に「ロシアマタロス休息所」が設置され、船津浦・稲佐郷は本格的にロシア海軍士官の止宿地域となった。 さらに、明治3年には「ロシアマタロス休息所」が悟真寺近くに移され、明治8年には日露戦争の前年明治36年までは船津浦・稲佐郷が名実共にロシア村となっていったのであった。 P.108 万延元年のロシアマタロス休息所が稲佐遊廓の始まりであって、場所は現在の稲佐児童公園あたりと推定する。このマタロス休息所は明治3年に「もはや年数相成り、追々大破」「便利悪しく、場所替え」として悟真裏手(北側)に建て直された。「長崎医学百年史」に検梅(毒)の記録が出てくるのは、この稲佐の万延元年であり、対馬事件の4ヶ月程前のことであった。 P.114-P.115 稲佐郷にロシアマタロス休息所が出来て丸山町・寄合町の遊女が出向くようになった。慶応元年の「外国御用留」によれば、船津浦にも遊女が出向いたようである。

この文献を参照している記事

長崎稲佐(ロシア村跡地)お栄が建てたホテル「ヴェナス」。