松竹秀雄稲佐風土記長崎の対岸 (新長崎郷土シリーズ ; 第1巻)長崎文献社1985
(1)その後のお栄
悟真寺
(2)女傑、稲佐お栄
P.151 お栄こと道永エイは、万永元年の出生、明治13年、満20才のと肥州屋のおかみお豊の紹介によって長崎の稲佐・志賀の波止で異人(殆どロシア人)相手のホテル・レストラン料亭ボルガの諸岡マツの世話になり、おマツの紹介でロシア将校クラブに住み込みで就職した。 P154-P.162 ロシア語を習得したお栄は、女実業家、社交界の花形としてデビューし、その美貌と才幹は有名になり、ウラジオストックに腰を据え、極東艦隊の首脳、実業界の有力者と密接な関係結び軍需工業を経営して莫大な利益を得た。帰国後のお栄は、ホテル・ヴェスナを建設。幕僚たちの酒宴とダンスの歓楽の宿場となった。 P.168 ホテル「ヴェスナ」の跡(現浜崎水産社宅の場所) P.163-P.165 稲佐の日露戦没ロシア兵捕虜収容 明治38年1月1日、日露戦争において旅順のロア軍が降伏し、ステッセル中将は捕虜として長崎に到着。お栄宅に滞在。捕虜の宿泊総数(延べ人数)は9,408日を稲佐遊廓、悟真寺、個人宅など、殆どすべてを稲佐全域で収容割り当てを消化している。 旧お栄宅付近(ここをステッセルが下がって行った。) P.196 お栄本宅見取り図 P.199 お栄本宅跡の敷石