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万年跡 リンク
■江戸時代に「奈良茶飯」が評判を呼び、宿場一の茶屋となった万年屋の跡地。多摩川を渡って川崎宿 に入ってすぐの江戸口(下手土居)にあったという。「江戸名所図会」にも紹介された。現在、旧街道 沿いには旅籠・万年(屋)の説明板がある。 ■明和年間(1764~72)、一膳飯屋だった万年屋は、奈良茶飯の人気で、宿場一の茶屋となり、宿泊もま かなうようになった。江戸時代後期には大名も昼時に立ち寄るほどで、やがて本陣をもしのぐように なった。 ■万年屋があった付近には会津屋や新田屋など大きな茶屋がほかにもあった。厄除けで有名な川崎大師 へ向かう多くの参拝者たちが、その行き帰りに立ち寄ったためである。また、万年屋近くには「従是弘 法大師江之道」の道標が立ち、東海道から大師道への分岐点となっていた。ここから医王寺までの大師 道は「万年横丁」とも呼ばれた。 ■安政4年(1857)のこと、アメリカ駐日総領事ハリスが江戸へ向かう途中、川崎宿・田中本陣に泊まる予 定であったが、本陣のあまりの荒廃ぶりを見て万年屋に宿を変更したという。また、明治10年(1877)療 養に向かう皇女・和宮が万年屋で一泊した際、愛らしい赤子とふれあい、すっかり明るく元気を取り戻し 川崎宿を後にした。ところが和宮は翌月帰らぬ人となる。帰宅する霊柩が再び万年で休車すると、和宮 が箱根到着後さっそく赤子への土産にと買いととのえた箱根細工の玩具が、女官の手によってかの赤 子、万年屋の主人半七の孫娘・ハルに手渡されたという。