中村実男昭和浅草映画地図明治大学出版会2018
浅草公園の誕生と六区の隆盛
P.2 江戸時代の浅草は、庶民信仰の浅草寺を中心に、見世物と大道芸の奥山(観音堂の西から北の区域)、歌舞伎の猿若町、行楽の墨田川など、多様な遊びが集まる「江戸唯一の盛り場」だった。明治以降も銀座にその地位を明け渡す昭和初期までまで、東京一の盛り場であり、その後も、昭和30年代まで、なお東京を代表する盛り場の一つだった。 「浅草公園」略して「公園」あるいは、ひっくり返して「エンコ」と呼ばれた浅草公園は、昭和26(1951)年まで存在した。この浅草公園こそが、浅草の賑わいの中心だった。浅草公園は六つの区に分かれ、第六区は興行街である。 浅草公園が誕生したのは、明治6(1873)年である。今日の内閣に相当する太政官が出した「太政官布告」によって、浅草寺の境内が公園に指定された。明治政府は欧米諸国の例にならい、都市の中に公園を設けることを計画し、浅草寺境内を上野寛永寺などと共に公園に指定したのである。これに先立つ明治4年、新政府は「上地例」を発し、浅草寺の境内地と領地を東京府に移管しており、浅草寺に抵抗の術はなかった。 P.3 公園に指定されたものの、整備が本格的に始まるのは、明治15年9月である。まず、公園を拡張するため、境内西側の「浅草田圃」が埋め立てられ、その一角に「大池」のちの瓢箪池がつくられた。 第六区には、19年頃から、東京府の命令に従って、奥山にあった見世物小屋が続々と移転くる。六区では、生(いき)人形やろくろ首や剣舞など、奥山時代と変わらぬ見世物小屋が並ぶ一方、新たに「登高遊覧施設」が登場する。高い場所からの眺望を楽しむ施設で、第一号は明治20(1887)年に開場した富士山縦覧場である(現在ROXがある場所)。23年には、六区のすぐ北に、長く浅草のシンボルとなる凌雲閣(りょううんかく)、通称「十二階」が誕生する。 P.5 六区の見世物小屋が変貌するきっかけは、明治29(1896)年の六区の大火である。小屋のほとんどが消失し、以来、塗谷(外面を土で厚く塗った木造の建物)または煉瓦造の耐火建築に変わっていった。36年には、電気仕掛けの見世物小屋「電気館」が活動写真館(映画館)に変わる。日本最初の常設活動写真館である。40年代になると、見世物小屋次々と活動写真館に転身し、三友館、大勝館、富士館、帝国館、金龍館などが誕生する。六区は日本一の活動写真街となり、新着洋画も、まず浅草で封切られた。 P.7 大正時代の六区では、活動写真のほかにも、新たな興行物が人気を集めた。後世、しばしば「オペラ華やかなりし頃」と表現される「浅草オペラ」の隆盛である。大正の初め、イタリア人ローシーが、日本にオペラを移植しようと、帝国劇場等を拠点に奮闘したが、失敗に終わった。一方、大正6(1917)年2月、伊庭孝と高木徳子の歌舞劇協会によるミュージカル・コメディ「女軍出征」(伊庭幸作)が常盤座で上演され、大好評を博した。この成功が呼び水となって「ローシーオペラ」の残党たちが浅草に集結する。大正7、8年には、歌舞劇協会のほか、東京画劇座や原信子歌劇団が日本館や金龍館を舞台に「オペラ」(実際にはオペレッタやアメリカ流ミュージカルの混合)の一大ブームを巻き起こし、「ペラゴロ」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。