茂原市海軍航空隊調査委員会調茂原海軍航空隊査報告書千葉県茂原市教育委員会

P.30
45年1月頃、第一線で消耗した戦闘304飛行隊が館山に復帰。3月にはある程度体制を整えた戦闘304飛行隊は茂原へ移動しました。
その頃は連日のように艦載機グラマンによる空襲がありましたが掩体壕に入れた飛行機に被害が出ることはほとんど皆無でした。

P.34
304飛行隊は1944年(昭和19年)7月一日付で誕生したが、搭乗員の多くは315飛行隊員として館山基地で訓練に励んでいた。 米艦載機の来襲に際しては 迎撃戦に出動し、東京湾上空で激しい戦闘を行った。そして45年初頭に基地が茂原海軍航空隊に移され、柳沢少佐を飛行隊長とする戦闘304飛行隊が正式に発足した。
45年3月 米軍の沖縄来航により戦況は俄かに緊迫し、これに対応するため304飛行隊にも沖縄戦への出動命令が下り、同年4月初旬、柳沢少佐を隊長とする神風特別攻撃隊第三御楯隊(みたてたい)柳沢零戦隊が編成され、約40名が茂原基地から愛機に乗って鹿児島県の国分基地に転出し、他の飛行隊と共に菊水三号作戦に参加した。制空隊(特攻隊よりも先発ってて敵戦闘機を空中戦に巻き込みその間に特攻を成功させるのが任務)と爆戦隊(特攻隊)の二体に分かれて沖縄に向かって出撃し、多くの戦果を挙げたが、柳沢隊長はじめ数多くの戦友が壮烈な戦死を遂げられた。

P.35
戦闘304飛行隊の発足以来の戦死者は終戦の日を含め総計37名となった。

P.36
神風特別攻撃隊第三御楯隊柳沢零戦隊の戦死者名簿(19名)
予科練(特乙含む):13名、予備学生:3名(中尉、大尉)、海兵:3名(少佐、大尉、中尉)。

この文献を参照している記事

茂原(滑走路跡)南北に縦断する滑走路跡。