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はいけい
 三十日さんじふにち相州さうしう酒匂さかは松濤園しようたうゑん一泊いつぱく間近まぢか富士ふじのぞ松原まつばらする夕波ゆふなみおもむきし。

としにはとりこゑなみおと 三十一日さんじふいちにち小田原をだはら見物けんぶつ遊女屋いうぢよやのきならべてにぎやかなり。蒲燒屋かばやきやのぞ外郎うゐらうあがなひなどしてぼんやりとほる。風采ふうさいきはめて北八きたはちたり。萬年町まんねんちやうといふに名代なだい藤棚ふぢだな小田原をだはらしろる。二宮尊徳にのみやそんとくをうまつれる報徳神社はうとくじんじやまうづ。鳥居とりゐ階子はしごして輪飾わかざりをかくるさまなど、いたく神寂かんさびたり。
 天利てんりにて、晝食ちうじき料理屋れうりやかどにて小杉天外氏こすぎてんぐわいしふ。それより函嶺はこねおもむ途中とちう電鐵でんてつ線路せんろまよあぶなはしわたることなどあり、午後四時半ごごよじはんたふさはちやく
 いへのかゝり料理れうり鹽梅あんばいさけあぢ、すべて、田紳的でんしんてきにて北八きたはち大不平だいふへいしかれども温泉をんせんはいふにおよばず、谿川たにがはより吹上ふきあげの手水鉢てうづばち南天なんてん一把いちは水仙すゐせんまじへさしたるなど、風情ふぜいいふべからず。
 またおもひかけず、久保くぼ飯田いひだ爾氏りやうしふ。
 こゝに一夜いちやあけのはる女中頭ぢよちうがしらのおぬひ?さん(ねえさんのいまつまびらかならず、大方おほかたうだらうとおもふ。)朱塗しゆぬり金蒔繪きんまきゑ三組みつぐみさかづきかざりつきの銚子てうしへ、喰摘くひつみぜん八分はちぶさゝげてきたる。つうけて屠蘇とそいはふ。

はしをおあそばせといふ喰摘くひつみや 十時じふじ出發しゆつぱつどう五十五分ごじふごふん電鐵でんてつにて小田原をだはらかへり、腕車わんしややとうて熱海あたみむかふ、みち山越やまご七里しちりなり。
 城山しろやまのぞみて

やまくや豐公ほうこう小田原をだはらしろむ あひだ石橋山いしばしやま古戰場こせんぢやうあり。
 山中さんちううらにて晝食ちうじき古代こだいそつくりの建場たてばながら、さけなることおどろくばかり、斑鯛ふだひ?の煮肴にざかなはまぐりつゆしたをたゝいてあぢはふにへたり。

やまけばはじめてまつてしいへ 眞鶴まなづるはま風景ふうけいことし、大島おほしままで十三里じふさんり、ハジマまで三里さんりとぞ。
 伊豆山いづさんにて

門松かどまつやたをやめとほやますそ 五時半ごじはん熱海あたみちやく
 今朝けさ梅林ばいりん金色夜叉こんじきやしやうめる、富山唯繼とやまたゞつぐ一輩いつぱい人物じんぶつあるのみ。

兀山はげやまのあたるところ遣羽子やりはごす(いづれを見ても山家育ちさ) 紀伊きいみや樟分くすわけやしろまうづ、境内けいだいくす幾千歳いくちとせあふいでえりたゞしうす。

あけのはる大樟おほくすのきくもかゝる なほ例年れいねん寒威かんゐきびしきよしにてうめなほつぼみなり。

うめはやき夕暮ゆふぐれ日金ひがねおろしかな ヒガネとむ、西風にしかぜさむきがたう熱海あたみ名物めいぶつなりとか。三島街道みしまかいだう十國峠じつこくたうげあり、今日こんにちかぜ氣候きこう温暖をんだん三度さんどくもごと湯氣ゆげいてづるじつ壯觀さうくわん御座候ござさふらふ後便こうびん萬縷ばんる敬具けいぐ

明治三十五年一月

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 僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切やぎりわたしを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈かいわいでの旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るようなしいの樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森いもりで村じゅうからうらやましがられて居る。昔から何ほど暴風あらしが吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根をがれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまたすすやらあかやらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目もくめも判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠くぎかくしなども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きいがんであった。勿論もちろん一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。

 茄子畑というは、椎森の下から一重のやぶを通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑せんざいばたけがけの上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯たかねも見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何いかにもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。

 村のものらもかれこれいうと聞いてるので、二人揃うてゆくも人前恥かしく、急いで村を通抜けようとの考えから、僕は一足先になって出掛ける。村はずれの坂の降口おりくちの大きな銀杏いちょうの樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃たんぼがある。色よく黄ばんだ晩稲おくてに露をおんで、シットリと打伏した光景は、気のせいか殊に清々すがすがしく、胸のすくような眺めである。民子はいつの間にか来ていて、昨日の雨で洗い流した赤土の上に、二葉三葉銀杏の葉の落ちるのを拾っている。

 船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個ひとつにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでものどがつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸をでたりえりを撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返いちょうがえしに薄く化粧をしている。煤色すすいろと紺の細かい弁慶縞べんけいじまで、羽織も長着も同じい米沢紬よねざわつむぎに、品のよい友禅縮緬ゆうぜんちりめんの帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。

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