黒田泰介軍港都市横須賀・下町地区の都市形成 防火建築帯によるまちづくり関東学院大学出版会
海面埋め立てによるまちづくり

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横須賀町の拡張は後背の丘陵上部にある中里(上町)にも及んだ。造船所近くの下町地区は遊興地であったのに対して、上町には多くの住宅が建てられた。上町方面は浦賀道が通っていたが、下町との通行は明治十年頃に作られた狭い坂道(平坂)しかなかった。その後、平坂が拡幅されて交通が改善されたことにより、居住地はいわゆる下町から上町へと広がっていき開発が進んでいった。

三笠ビル建設の経緯

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横須賀は奇跡的に空襲から免れ、町の都市基盤と都市機能はほぼ無傷だった。このため終戦直後から人口の回復が続き、横須賀のヤミ市は米軍相手のスーベニアショップと日用品マーケットへと変わり、市街地の活気を取り戻した。そして1959年11月、横須賀市で初めて耐火建築促進法が適用された防火建築帯の三笠ビルが竣工する。

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街外れの遊興地として形成された下町地区(かつては遊廓があった大滝町)は、木造の簡易的な飲食店などで構成されていたため、幾度も発生した大火に悩まされていた。都市の不燃化は横須賀市民の宿願でもあった。

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三笠ビルの場合、共同化するにあたり、賛同得られなかった権利者が複数名いたものと考えられ、外観は一体の建築に見えるが、実は数棟に分かれた鉄筋コンクリート造りの建築物であり、その間には共同化に不参加だった店舗のコンクリートブロック造や木造の建築物が挟まっていた。

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三笠ビルは構造としては数棟に分かれており、通りに面するハファサードや中央通路アーケードの共同化については合意が得られた。「統一された都市美」を見せるその雄姿は、今日も横須賀中心市街地の顔として存在感を保ち続けている。

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三笠ビル商店街を縦断に貫く歩行者専用の中央通路は、ももともと横須賀市の市道、通称「三笠通り」であった。公道が、建物の中を縦断している例は希である。現在でもこのような空間を作ることは難しい。