小田原史談会小田原史談小田原史談会
第145号1991.6
石井富之助小田原叢談(五)

P.281
初音新地
小田原の遊女屋は江戸時代の飯盛女に始まり、明治35年まで東海道筋に散在していた。袖が浜の入口あたりから旧中宿までの間に17軒の遊女屋があったった。明治32年、従来市街の中心に軒を並べていた遊女屋を指定地に集めるという措置が取られた。この時指定された所は旧古新宿(こしんしく)の海側の一角であった。
泉鏡花の小品には小田原のことを書いたものが数編ある。その中の「熱海の春」(明治35年1月)には、「31日、小田原見物、遊女屋が軒を並べてにぎやかである。」とある。また「城の石垣」(明治35年3月)には、「小田原のしおから、かまぼこ、ういろう及び竹家の藤、金格子の東海楼、料理店の天利、城の石垣、外郭の梅林はおよそ日本一である。」と東海楼の名が出てくる。しかし、この商品が描かれた明治35年には、古新宿にすでに遊廓ができかかっていた。
ところが、同9年9月28日、小田原一帯を大津波が襲い、この津波でほとんどできあがっていた遊女屋は跡たかもなく押し流されてしまった。
そこで、指定地替えが行われ、新玉4丁目の一廓が指定された。