下館の稲荷町にある映画館の「シネマ1」。

遠くからでもこの看板を見つけることができます。

入口とチケット売り場。

大映映画の系列だったのでしょうか。

えいが
下館の稲荷町にある映画館の「シネマ1」。
遠くからでもこの看板を見つけることができます。
入口とチケット売り場。
大映映画の系列だったのでしょうか。
今回は、神保町の町並みを散歩します。
神保町シアターは、古い邦画を中心に、上映している映画館です。
今月は、「女たちの街」と題し、色街、花街、ネオン街の名作17作が上映されています。
今回、鑑賞したのは、「赤坂の姉妹 夜の肌」川島雄三監督の昭和35年の作品です。
館内の壁面。
現在のアスレチッタ1階のエレベーターホールに「蒲田松竹撮影所跡」の木柱が建てられています。
川崎映画街を作った(株)美須商事(旧チネチッタ)は、昭和25年、この場所に「蒲田東映劇場」をオープンさせました(案内板より)。
アスレチッタの裏口(写真左側手前)。ここから、ニッセイアロマスクエア隣りのビル壁面に描かれている「松竹キネマ蒲田撮影所」の絵が遠望できます(写真右奥)。
蒲田の歴史を物語っています。
今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みと風俗を散歩します。
大正2年(1920年4)、松竹キネマ合名社が設立され、敷地として、蒲田の中村化学研究所跡に蒲田撮影所が整備されました。男女俳優の募集も行われ、その頃の日本映画では女性の役をほとんど”女形”が演じていましたが、松竹では”女は女優”の方針でした。1
撮影所があった敷地に建てられた大田区民ホール「アプリコ」(写真奥)前の植え込みには、撮影所の入口にあった松竹橋が再現されています。2
松竹橋の親柱は、もう一つ、「アプリコ」の1階の入口付近に設置されています。
もはや現存しないものとされていた実際の親柱で、鎌倉在住の方から寄贈の申し出があり、70数年ぶりに、当地への里帰りが実現したものです(案内板より)。
「アプリコ」の地階には、全盛時の蒲田撮影所を再現したジオラマがあります。
正門前を逆川(さかさがわ)が流れ、そこに松竹橋がかかっていました。
【参考文献】
*1 永山武臣:松竹百十年史(松竹,2006)P.364-P.367
*2 大田観光協会:大田区観光ガイド(ハーツ&マインズ,2007)P.74
横浜駅西口の相鉄ムービルとビックカメラのビルに挟まれて小さな雑居ビルがあります。
高収入アルバイト、テレクラなどの看板が連なる風俗ビルですが、すでに閉店となっている「西口にっかつ」「連日オールナイト」の看板が残されています。
ビルの屋上に、「西・口・に・っ・か・つ」と1文字づつ書かれた丸い看板が取り付けてありますが、ビルの影に隠れてしまっています。
横浜駅西口には、「西口シネマ」、「西口ニューシネマ」、「西口にっかつ」の3軒の成人映画館がありましたが、いずれも数年前に閉店しました。
テレクラの入口の隣に「西口にっかつ」の入口がありましたが、現在は封鎖され、代わりにドアが取り付けられています。
今回は、柴又(東京都葛飾区)の町並みと風俗を散歩します。
駅前の広場には、「男はつらいよ」でおなじみの寅さんの銅像があります。
松竹映画「男はつらいよ」シリーズは、山田洋次原作・脚本・監督、渥美清主演で1969年に第1作が公開され、以後1995年までの26年間に全48作品が公開された国民的人気シリーズです。*1
「わたくし、うまれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎。人よんで、フーテンの寅と発します。」という、おなじみの寅さんの口上が思い出されます。
(余談になりますが、わたくし風俗散歩は、姓は風俗、名は散歩。人よんで、フーさんと発します)
銅像の台座には、「寅さんは損ばかりしながら生きている。江戸っ子とはそういうものだと、別に後悔もしていない。(中略)ごめんよさくら、いつかはきっと偉い、兄貴になるからなー。車寅次郎はそう心に念じつつ、故郷柴又の町をふりかえるのである」と山田洋次郎監督の言葉が書かれています。
帝釈天参道の入口は、駅からすぐです。
【参考URL】
*1 松竹株式会社:男はつらいよ 松竹公式サイト「男はつらいよ」とは
今回は、横浜曙町の町並みと風俗を散歩します。黄金町からすぐのところに、映画館の日劇があります。昭和30年代から半世紀にわたって親しまれてきた映画館です。
残念ながら、2005年2月に閉館となりました。古い映画や人気のない映画を低価格で2本見れるというコンセプトだったようです。伊勢佐木町周辺の映画館は閉館が相次ぎ、全滅状態です。
シネマスコープの文字が見えます。
隣のシネマジャック&シネマベティ(旧東映名画座)も閉館と聞いていましたが、こちらは営業しているようです。「ゴシック・ロリータ」上映してました。
明治36年に、浅草六区に、日本最初の活動写真の常設館「電器館」が開設されました。電器館は、当初は、電気仕掛けの器具類を応用した見世物小屋でしたが、後に、フィルムの配給受け活動写真の上映を始めました。見物人は下駄ばきで腰掛もない土間に立たされましたが、入場料の安さと、日露戦争(明治37年)後は戦況を知らせる実写映画が打てるようになったことで、客足が伸びました。*1
40年代になると、見世物小屋次々と活動写真館に転身し、三友館、大勝館、富士館、帝国館、金龍館などが誕生する。六区は日本一の活動写真街となり、新着洋画も、まず浅草で封切られました。*2