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横浜(反町遊廓跡地)現在は反町公園です。

今回は、横浜(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
JR京浜東北線の東神奈川駅から徒歩で10分のところに、反町公園があります。

反町公園があった場所(旧反町駅から現在の第二京浜国道に至る一画)には、戦前まで反町遊廓がありました。*1

反町遊廓は、明治33年に七軒町の遊廓を移転してつくられました。*2*5
昭和7年発行の「大日本職業別明細図 神奈川県」*3 には、現在の反町公園の西側一帯に「反町遊廓」の記述があり、16軒の遊廓が名入りで配置されています。この遊廓は、大正、昭和が全盛でしたが、昭和16年の開戦で、工業地帯の職工や勤労動員者の宿舎に変わり、昭和20年の横浜大空襲で全焼してしまいました。終戦と同時に進駐軍のモータープールになり、さらに、昭和23年、貿易博覧会の会場となった後、分譲されて反町公園や区役所と国鉄他の所有者と変わりました。*4

現在は、遊廓だった頃の面影は残っていません。

【参考文献】
*1 岩田忠利:わが町の昔と今.3(「とうよこ沿線」編集室,2001)P.56
*2 横浜市:横浜市史稿.風俗編(臨川書店,1985)P.482
*3 東京交通社:大日本職業別明細図 神奈川県(東京交通社,1932)
*4 サトウマコト:第二京浜国道と鶴見めがね橋物語(230クラブ,2002)P.93
【参考URL】
*5 長崎大学附属図書館:幕末・明治期日本古写真超高精細画像「神奈川七軒町の神風楼(2)

柏木田(柏木田遊廓跡地)小説「血族」の舞台。

今回は、柏木田(神奈川県横須賀市)の町並みと風俗を散歩します。
横須賀市内でもっとも古く、しかも公然と認められた遊廓は柏木田でした。明治21年2月頃、大滝町の豊川稲荷付近に大火があって遊廓が焼失したため、明治22年6月頃、柏木田に移転しました。*1

柏木田遊廓のことは、山口瞳さんの小説「血族」に詳しく書かれています。山口瞳さんの祖母は、「藤松」という屋号の貸座敷の経営者でした。

「血族」には、「大門から数えて、ホンダオートバイ販売店、仕舞屋、江戸屋という染物店、この3軒分が藤松...」と藤松があった場所が説明されています。*1
こちらの住宅地図(の右上部分)には、オートバイ店、染物店の江戸屋が記載されています。染物屋はマンションに建て替わっていますが、オートバイ店は現在も営業中です。

ソープランドがあったあたり。

【参考文献】
*1 横須賀警察署史発行委員会:横須賀警察署史(横須賀警察署,1977)P.123
*2 山口瞳:血族(文芸春秋,1979)P.209

横須賀(大滝町)さいか屋付近にあった遊廓。

今回は、横須賀(神奈川県横須賀市)の町並みと風俗を散歩します。
京急横須賀中央駅前の大滝町付近は、横須賀市内の一番の繁華街となっています。

徳寿院から見た市街。

大滝町には、明治時代、公認の遊廓がありました。遊廓があった場所は、現在のさいか屋デパートがあるあたりで、昔は、この付近までが海で、つまり横須賀軍港の海岸線上に遊廓がありました。

さいか屋本館付近。

【参考文献】
*1 港町から 第2号 / 「港町から」編集委員会(街から舎,2009.4)P.61

三津浜(稲荷新地遊廓跡地)現在は住宅地や工場用地となっています。

三津浜には、稲荷新地と呼ばれる遊廓がありました。場所は、旧お船場(現、住吉2丁目11)で、現在は住宅地や工場用地となっています。現在は埋め立てられていますが、当時は、この写真の道路部分(写真右側)は運河でした。*1*2
三津浜には、十軒茶屋と称する花街が住吉町にありました。伊予鉄道の三津駅が出来てから住吉町は賑わうようになり、貸座敷も開業されましたが、風紀上の理由から稲荷新地に移転し、三津の遊廓となり、大正から昭和初年が最も盛大でした。*3

こちらの寿司屋の付近までが、遊廓があった場所だったと思われます。*1

遊廓内には、稲荷神社があり、よく信仰されていました。*3
古地図*2 によると、稲荷神社があった場所は、内港へ向かうこの通りの東側(写真右側)です。

旧地名の名残と思われる「稲荷」と書かれた電柱のプレート。同じ場所に、「シンチ」と書かれた電柱もありました。

【参考文献】
*1 しあわせづくり三津浜地区推進委員会:三津浜ふるさと散歩道(しあわせづくり三津浜地区推進委員会,1999)P.6
*2 松山市立中央図書館:御津の歴史移り変わり「三津濱町図」
*3 三津浜郷土史研究会:三津浜誌稿(三津浜郷土史研究会,1960)P.37

保土ヶ谷(保土ヶ谷遊廓跡地)保土ヶ谷橋の近くにありました。

保土ヶ谷遊廓は、保土ヶ谷橋からすぐの所にあり、貸座敷が7軒あり、娼妓は50人ほどいました。遊廓は、宿場町の時代が残した飯盛女の化身とも言えるものです。*1
保土ヶ谷橋は、現在もあります。

昭和6年の「大日本職業別明細図 保土ヶ谷区」に保土ヶ谷遊廓の位置が記されていますが、それによると遊廓は、保土ヶ谷橋近くの今井川が直角に曲がるあたりの南側にあったようです。遊廓は、西側(八幡神社側)から、「松美楼」、「大松楼」、「松芳楼」、「第一万金楼」、「第二万金楼」、「東家」と並んでいました。

八幡橋から見た今井川。

南側の台地からの眺め。

【参考文献】
*1 南博,林喜代弘編:近代庶民生活誌 第14巻 色街・遊廊2(三一書房,1993)p.35

根津(遊廓跡)女性に縁の深い土地。明治21年に洲崎に移転。

今回は根津(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
「明治の東京」*1 によると、「藍染橋(在の根津一丁目の交差点付近)までは、引手茶屋であったらしく、橋から先が娼楼の区域で、権現の方へ曲がっている八重垣町の方に大楼があったのではなかろうかと思う。」と紹介されてます。*2*3

根津神社近くの商店。根津遊廓のことを記した銅版のプレートがあります。

根津遊廓は明治21年をもって、洲崎に移転したため、現在、その名残はありません。
しかし、遊廓的な雰囲気は移転後も残っていました。 「不思議の町根津」*1 によると、今の根津小学校の近くで、夕方になると日本髪を結って、白粉をつけた2、3人出てきて客を引いていました。*4

遊廓移転後の明治29年、根津神社内に残っていた旧大八幡楼の建物を利用して、温泉旅館「紫明館」ができました。そして、数年前までは日本医科大学の看護婦寮でした。町の歴史を長く知る人たちは、「あそこはよっぽど女に縁の深い土地に違いない。」と噂しています。*4
現在、看護婦寮があった場所は日本医科大学大学院になっています。

【参考文献】
*1 馬場孤蝶:明治の東京(丸ノ内出版,1974)P.8-P.9 中央公論社昭和17年刊の複製
*2 上村敏彦:花街・色街・艶な街(街と暮らし社,2008)P.70-P.72
*3 林順信:東京路上細見①(平凡社,1987)P.174
*4 森まゆみ:不思議の町根津(筑摩書房,1997)P.104,P.219-P.220

三崎(諏訪町の花街)通称「諏訪遊廓」跡。

北条湾に注ぐ狭塚(さづか)川下流の諏訪町のあたりは、遊廓から温泉街へと姿を変えていった場所です。*1

このあたりは、かつて北条花街があった場所です。

飲食店風の建物。

昭和33年に売春防止法が施工され、狭塚川の下流両岸にあった三崎花街は消滅し、その後北条温泉街として再出発しましたが、風呂へ入り、酒食を楽しむ人は多くはありませんでした。*1

【参考文献】
*1 辻井善弥:横須賀・三浦今昔写真帖(郷土出版社,2003)P.68

関内(横浜公園)明治時代、港崎遊廓があった場所です。

今回は、関内(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
関内駅前には、日本のプロ野球の横浜ベイスターズが本拠地として使用している横浜スタジアムがあります。スタジアムは、横浜公園の敷地内にあります。

横浜公園は、公園内に碑によると、明治9年(1876年)に設置された日本最古の公園です。

横浜公園ができる前、この場所には港崎(みよざき)遊廓がありました。
1858年(安政5年)、徳川幕府とアメリカとの間で日米修好通商条約が結ばれましたが、そのときアメリカから総領事として派遣されたタウンゼント・ハリスは、アメリカ軍兵士の慰安のため、徳川幕府に遊廓の建設を希望しました。幕府はこれを受け、駒形屋遊廓を建設し、これが後の港崎遊廓の前身となりました。港崎遊廓は壮大な規模で、現在の横浜スタジアムの敷地全体がほとんどすっぽり遊廓でした。*1

遊廓の正面は、横浜スタジアムの外野の外にあり、そこから東北方向に1キロも行かないところに横浜港があり、横浜港に立つと真正面に港崎遊廓が見えました。*1
写真は、日本大通りから横浜スタジアム方面を見たところです。
幕末の開港当時、日本大通りの南東側(写真左側)に外国人が暮らすための居留地設けられ、北西側(写真右側)が日本人居住地でした。*2

【参考文献】
*1 川元祥:開港慰安婦と被差別部落(三一書房,1997)P.65,P.83,P.95
*2 横浜開港資料館:横浜・歴史の街かど(神奈川新聞社,2002)P.18-P.19