マタロス休息所※1 が発展して出来上がった稲佐遊廓。現在はその名残はありません。

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

旅館松月

逆方向(東側)から。

ゆうかくあとちくかく
マタロス休息所※1 が発展して出来上がった稲佐遊廓。現在はその名残はありません。
遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1
旅館松月
逆方向(東側)から。
住ノ江遊廓の開業は大正9年11月3日で、八軒の遊廓が軒を並べてどの遊女屋も5~10人の娼妓を抱えていました。*1*2
メインの通り(北側から)。写真奥は住ノ江橋です。*3
東側に入ったところには、検査所がありました。*3
六角川の堤防から旧遊廓地の遠望。
今回は、新宿大木戸の町並みを散歩します。
明治時代、内藤新宿と呼ばれていた頃、現在の新宿一丁目交差点から西側は、新宿遊廓があった場所で、街道の両脇には妓楼が建ち並んでいました。*1
新宿一丁目交差点南側は、新宿御苑大木戸門です。
逆方向から見たところ。ここから約100m先に、史蹟「四谷大木戸跡」があります。
地下鉄新宿御苑駅近く。
この付近にも妓楼が建ち並んでいました。*1(写真右は秋葉神社。)
今回は、平塚(神奈川県平塚市)の町並みと風俗を散歩します。 平塚遊廓は、現在の大鷲神社(平塚2丁目)の西側に一画にありました。*1 平塚遊廓は、昭和20年の米軍の空襲によって跡形も無くなり、終戦後、旧遊廓には、進駐軍の特殊慰安施設が作られました。昭和21年以降、旧遊廓は赤線区域となりました。*2
平塚の特殊カフェーは、大鷲神社の隣から東から西へ豊香、松葉、松栄、武蔵、喜本、千代本、相模、笹屋(以上、道路の北側)、道路の南側には、東から寿、組合事務所、都、金鱗、東、旭、福岡、村田、と建ち並んでいました。
売春防止法施行後、これらの特殊カフェーの一部は、旅館に転業したと思われ、昭和42年の住宅地図には、カフェーと同名の屋号の旅館も確認できます。写真は、旅館むさしがあったあたり。
この付近には、旅館きみの、旅館ともき、旅館ひさのやの3軒がありました。
遊廓の裏通り。
【参考文献】
*1 平塚市博物館市史編さん担当:平塚市史(平塚市,2011)附図「平塚復興都市計画図」
*2 今泉義廣:平塚花まち色まち物語(湘泉堂,2007)P. 122-P.129
*3 明細地図社:平塚市明細地図(明細地図社,1967)P.38
今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所(マタロス休息所)があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3
東側のメインの通りの南隣の路地。
古いアパートの建物。
外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1
遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1
【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」
今回は、新富町(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新富町の地名の由来は、明治維新後、この地に出来た新島原遊廓が3年後に廃止となった後、西側にあった大富町に対して名付けられました。*1
新島原遊廓は、明治維新後、築地の外国人居留地の中に作られた「外国人のための遊廓」で、3年ほどの短い命でした。「新島原」の名は、京都の島原遊廓に由来しています。*2
新富町にある東京都中央都税事務所は、芝居小屋の新富座があった場所です。新島原遊廓が引き払って、町名が新富町と改められた後も「新島原」の名は後年まで俗称として使われました。新富座の芝居は、島原の芝居と呼ばれ、島原へ行くと言えば新富座へ行くことでした。*3
新富座の全盛時には、五丁目に市川左団次、七丁目に尾上菊五郎、坂東彦三郎、中村芝翫(しかん)が住んでいました。*4
【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(東京堂出版,2006)P.204-P.205
*2 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.189
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*4 北村一夫:江戸東京地名辞典(講談社,2008)P.288-P.289
今回は、高山(岐阜県高山市)の町並みと風俗を散歩します。
高山の遊廓(大名田町(おおなだちょう)花岡遊廓)は、現在のJR高山線と国分寺の間にありました。
昭和11年発行の市街図*1 でみると、「花岡廓」と記された一画があります。
花岡遊廓の許可地は、3,500坪あって、妓楼は12軒、娼妓は52名いました。*2
遊廓の跡地には、旅館や割烹料亭などが点在しています。
板壁が美しい割烹料亭。
遊廓の北側飲食店街。
【参考文献】
*1 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.121
*2 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.86 「全国遊廓案内」
暁橋の手前の交差点から左に折れる道路は、突然道幅が広くなっています。田町遊廓跡の大門通りです。周囲には卸売り業者の倉庫や物流拠点があります。
地図で確認していみると、周囲の道路の幅と比べ、ここの部分だけが幅の広い道路となっていることがよく解ります。
逆方向(西側)から。
工場だったと思われる建物を転用した雑貨のディスカウントストアがありました。八王子はかつて絹織物工業がさかんでしたが、その頃の工場だったのかもしれません。