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丸の内(名古屋城展示室)三遊廓。享元絵巻。

尾張徳川家の居城だった名古屋城。天守閣5階の展示室に、徳川宗春が築いた町並みのの様子を描いた資料が展示されています。

享元絵巻。

当時の芝居や遊里の様子が描かれています。

宗春が作った三遊廓。左が葛町遊廓。右上が西小路遊。廓。右下が富士見原遊廓。

四ツ谷(元吉原以前の傾城屋跡地)「異本洞房語園」の記述。

今回は、四ツ谷(東京都千代田区、新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
吉原遊廓の成立を書いた最古の資料「異本洞房語園」には、「慶長の頃迄、御城下定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所、三四ケ所あり、麹町八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に同断、大橋の内柳町に廿余軒...」と書かれています。麹町八丁目とは、現在の麹町四丁目付近です。*1

現在、この付近には、千代田区 町名由来板ガイドがあります。

遊廓は、元和3年に日本橋(元吉原へ)移転しました。*1

名由来板ガイドが設置されているのは、麹町4丁目と五丁目の境界付近です。

【参考文献】
*1 石崎芳男:よしわら「吉原」(早稲田出版,2003)

京橋(京橋柳町遊里跡地)吉原の元祖。関が原の合戦後。

都営地下鉄浅草線宝町駅の出口前は、昭和通りと鍛冶橋通りが交差する宝町三丁目交差点です。

江戸時代初期、この交差点の角の秋田銀行が入っているビルと昭和通りを挟んだ向かい側のビルの京橋二丁目東南部の地域に、京橋柳町遊里がありました。12

関が原の合戦(1600年)後、徳川家康が江戸開発に着手してすぐの頃に、麹町八丁目、鎌倉河岸、京橋に遊里ができ、その後、京橋の遊里は、人形町に移転し「よし原町」と呼ばれました。つまり、京橋の遊里と人形町の「よし原町」は、同時に存在しなかったことになりますが、一部は京橋に残って酒肴を出しながら売春をかねる家や、柳の下にたたずんで男に声をかける比丘尼もいました。炭町には、なかなか人形町の吉原へ行きたがらないメンバーが寛永3年(1626年)まで残っていました。*3

京橋川(現在の首都高速環状線)の西寄り(現在の首都高速西銀座JCT付近)には、「比丘尼橋」という名前の橋がかかっていて、この一帯は歓楽街でした。*3

【参考文献】
*1 金山正好,金山るみ:中央区史跡散歩(学生社,1993)P.110
*2 新創社:東京時代map.大江戸編(光村推古書院,2005)P.48,P.50
*3 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.27,P.30

人形町(元吉原)明暦の大火で焼失後移転。大門通り。

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みと風俗(跡)を散歩します。人形町は江戸時代、元吉原がありました。場所は、現在の日本橋人形町2~3丁目と日本橋富沢町付近あたりとされています。写真は地下鉄の人形町駅を出たところの交差点です。有名な玉ひでがありますが、元吉原があった時期は玉ひでの創業よりもさらに100年ほど前です。現在は元吉原の面影はまったくありません

元吉原の案内板があります。それによると、元吉原は、江戸時代の始め(元和3年(1617年)に葦(よし)が繁茂する湿地を埋め立てて造成されたことから吉原という名前がついたそうです。しかし明暦3年(1657年)の大火で焼失したことをきかっけに39年間栄えた吉原遊郭は、浅草山谷へ移転するこになりました。移転後の吉原を新吉原、移転前の吉原を元吉原と呼びます。

歌舞伎で有名な玄冶店の碑が人形町の交差点近くにあります。吉原が移転した跡にこの地において歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んになり、人形町の地名の由来になったそうです。

現在の吉原にある大門は元吉原にあった大門という名前をそのまま引き継いだものとだそうです。現在の人形町にも大門通りがあり、当時の吉原の名残りを見ることができます。

この風景から400年前の吉原遊郭を想像するのは少し難しいようです。