高橋長一臼杵物語高橋長一1978

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下ノ江港は帆船時代の風待ちの港であり、5万石城下臼杵の港でもあった。藩だけでなく、日向、大隅から大阪に上下する帆船も風待ちに下ノ江港を利用した。従って、これを目的に次第に家が建ち、船乗り相手の商売をはじめた。船員たちは、各地の唄を酒の勢いでうたいまくり、即興の歌詞もとびだし、下ノ江節となっていった。風待ちで退屈していた船子は店にあがり、女郎衆と陽気に騒いだ。
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明治時代に入り、帆船時代が去ると下ノ江港の使命は終わった。下ノ江遊廓は、船員相手ではなく、町から人力車で遊びに来る紳士、紳商が主な客となり、こうして、今に伝わる下ノ江節が誕生した。
下ノ江節(抜粋)
 下ノ江可愛や金毘羅山の松が見えますほのぼのと
 下ノ江女郎衆は錨か網か今朝も出船を二隻とめた
 下ノ江に女郎買って三つ子の沖で、はじくそろばん後やさき
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昭和10年には、野口雨情も下ノ江を訪れている。一行は、花屋のはなれに落ち着いた。このはなれ座敷は、岩の上にあって津久見島をみはるかす素晴らしい風景でした。
花屋には、「潮来汐去」「花屋楼にて雨情」の横額が保存されている。花屋の離れにて汐の満干にによる岩場の変化が特に興味をひいたものであった。
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帆船時代の風待港として300年の繁栄から、明治に入って遊廓として五件ほどの店を張ってかなりの活気を持っていたが、現在はやっと永楽屋など料理旅館として命脈を保っている。永楽屋は遊廓当時のままに残されていて、兵どもの夢の跡をそぞろに偲ばせている。

この文献を参照している記事

下ノ江(遊廓「栄楽屋」跡地)現在は「久楽」
下ノ江(妓楼寄進の百度石)綿津見神社。妓楼は、花屋、永楽屋等が有名でした。
下ノ江(遊廓跡地)帆船時代は風待ちの港。