豊島区豊島区史 通史編 2豊島区史編纂委員会1983
喫茶店
池袋二業
P.806 駅の東側の道路と、「六郷の森」と呼ばれた根津山の中間の小道に待合兼小料理屋が大正末頃より軒を連ね始め、昭和3(1928)年頃には数十軒を数えまでになった。表看板は遊芸師匠であったが、その実芸妓業であった。東京市中からの遊興客も増え、夜毎の絃歌高唱が続いたが、警察当局による風紀取り締まりの対象とされ、禁止措置とともに一部が発足間もない大塚三業地に吸収されることになった。残る大部分は、地元の反対の声もあって、池袋西口の常盤通りを入口を北に入ったところを移転地として申請し、昭和3(1928)年池袋二業地として許可をされることとなった。二業地はその後、三業地となり、大塚三業と共に現在に至っている。
大塚三業
P.801 日露戦争頃より東京市隣接町村の都市開発は高まり、田畑は姿を消し、代わりに大塚周辺は宅地造成と勤め人でごったがえすようになった。こうした状況に比例して飲食店も増加し、大正期に入ると三業地要望の声も強まっていった。大正9年に看板を下げた「宮はま」は、そうした声を反映したものであった。清元の師匠として主席に出たのが契機となり大好評を博したたため、「宮はま」では、一軒で師匠(芸者のこと)を20余名も抱える盛況を呈した。やはり、芸妓と名乗り、待合と名のつくものがなくてはという要望が、大塚三業の指定地出願運動の開始となって現れた。 こうして、大正11(1922)年、巣鴨町字平松(現在の南大塚一丁目付近)の地(山の手線大塚駅前南口を出て線路沿い)に指定挙以下を受けて、大塚三業地がつくられることになった。