藤野町広報委員会むかしむかし藤野町1984.3
吉野遊廓

もともと、宿場女郎(飯盛女)は、宿場を旅人に素通りされたのでは、土地に金が落ちないということからできたもので、宿場吉野にも街道筋に、かいで、常磐、中島、とちぎ、という4軒の旅籠が点在していた。ところが、明治29年に大火事があり、街道筋のほとんどが焼けてしまった。その後、このような旅籠は新地に集められ、3軒の妓楼(柴田楼、中島楼、常磐楼)と3軒の茶屋(揚屋)で吉野遊廓となった。交通が発達するにつれ、遠く東京方面からの遊客もみえ、明治、大正、昭和の初期にかけて繁栄した。