全年代 > 近代 > 大正・戦前 1920年代 1三崎港周辺 2諏訪町の花街 3御船場 4稲荷新地遊廓跡地 5五條天神社の奉納額 6田中家 7小春軒 8芸者新道 9元宿堤稲荷神社 10お化け煙突跡 11大黒湯 12三ノ輪商店街 13吉原弁財天の弁天池 14吉原弁財天 15廿世紀浴場 16浄閑寺の永井荷風の詩碑 17観音様 18天王洲運河 19帷子川 20お稲荷さん 21住ノ江港 22住ノ江遊廓 妓楼の建物 23小城遊廓跡 24荒川遊園 25震災遭難者供養碑 26南地花街跡 27子宝湯 28防火用水と木製ゴミ箱の展示 29看板建築展 30三業通り 31スマトラカレー 32海老原商店 33割烹旅館玉川 34桜湯 35「二業」の電柱標識 36二業地跡地 37松竹蒲田撮影所跡 38蒲田撮影所跡」の木柱 39二業地見番跡 40豊川稲荷東京別院 41ツル茶ん 42洲崎遊廓寄進の墓 43花街跡 3.011275
1920s

茂原(桜湯)傍らに桜の木のある銭湯。房総横断道路近く。

房総横断道路から北へ入った通り。

銭湯の桜湯があります。

ペンキで書かれた「桜湯」の文字

傍らには、桜の木。屋号の由来の木でしょうか。

長崎丸山(ツル茶ん)大正14年創業のトルコライスの店。

長崎市街の思案橋近くにある「ツル茶ん」。

大正14年創業の老舗喫茶店です。

名物はトルコライスです。

ミルクセーキ。

小城(お稲荷さん)小城の遊廓の遊女が信仰。

小城の旧遊廓のメインの通り。

通りの奥(北側)に、娼婦達が参ったお稲荷さんがあります。

煉瓦が使われています。

お稲荷さんの周囲は、堀で囲まれています。

参考文献

*1 岡本澄雄 江戸吉原の遊廓と住ノ江遊廓 小城郷土史研究会 小城の歴史 : 第73号 2016
住ノ江は、江戸後期には生活の糧として有明海の魚介類を水揚げしていた漁村であったが、近代化の原動力と…

小城(住ノ江遊廓 妓楼の建物)面影を残す門構え。

現在は、住宅街となっている住ノ江遊廓跡に、1軒だけ、当時の三階建ての妓楼の建物が残っています。*1

遊廓の面影を残す塀。*1

玄関付近。

北側に隣接する敷地にも立派な塀が残されています。

参考文献

*1 岡本澄雄 江戸吉原の遊廓と住ノ江遊廓 小城郷土史研究会 小城の歴史 : 第73号 2016
住ノ江は、江戸後期には生活の糧として有明海の魚介類を水揚げしていた漁村であったが、近代化の原動力と…

小城(小城遊廓跡)住ノ江橋の東側。

住ノ江遊廓の開業は大正9年11月3日で、八軒の遊廓が軒を並べてどの遊女屋も5~10人の娼妓を抱えていました。*1*2

メインの通り(北側から)。写真奥は住ノ江橋です。*3

東側に入ったところには、検査所がありました。*3

六角川の堤防から旧遊廓地の遠望。

参考文献

*1 福岡博 佐賀・小城・多久の今昔 : 保存版 郷土出版社 2012.11
*2 岡本澄雄 江戸吉原の遊廓と住ノ江遊廓 小城郷土史研究会 小城の歴史 : 第73号 2016
住ノ江は、江戸後期には生活の糧として有明海の魚介類を水揚げしていた漁村であったが、近代化の原動力と…
地図1 かつての遊廓配置図(住ノ江遊廓)

小城(住ノ江港)石炭で栄えたかつての貿易港。

六角川の河口の住ノ江港は、かつては石炭で栄えた貿易港でした。*1

現在は漁港になっています。

住ノ江橋。

住ノ江橋の東側(写真左奥)には、住ノ江遊廓がありました。*1

参考文献

*1 岡本澄雄 江戸吉原の遊廓と住ノ江遊廓 小城郷土史研究会 小城の歴史 : 第73号 2016
住ノ江は、江戸後期には生活の糧として有明海の魚介類を水揚げしていた漁村であったが、近代化の原動力と…

白山(花街跡)染物屋「伊勢屋」は現在も営業中。

今回は、白山(東京都文京区)の町並みを散歩します。
旧白山花街の中心部の通り。花街時代からあった染物屋「伊勢屋」は現在も営業中です。

「伊勢屋」の脇の石畳の路地。

料亭だったと思われる木造家屋。

この付近には、料亭が密集していました。*1

船橋(割烹旅館玉川)大正10年に営業を開始。国登録有形文化財。

今回は、船橋(千葉県船橋市)の町並みを散歩します。
船橋駅の南側。国道14号線(旧道)沿いから少し南は入ったところに、割烹旅館玉川があります。

風情のある和風旅館の建築です。

玄関付近。

割烹旅館玉川は、大正10年に営業を開始。内部は意匠の凝った小部屋が迷路のように配されています。かつて、この付近は埋め立てが行われる以前は海岸線であったことを偲ばせてくれる建物です。現在は、国登録有形文化財になっています(案内板より)。

下総中山(田中家)吉原遊廓の楼主がつくった講の板招き。

京成中山駅から約500m。市川市にある中山法華経寺(写真奥に見える五重塔は、国指定重要文化財)。
参道沿いに茶屋の「田中家」があります(写真右手前)。

店内に掲げられた板招き(いたまねき)*1

吉原遊廓の楼名。

地元の方の話によると、「板招き」はケヤキの板で作られ、当時(明治時代初期)は文字部分は金粉で装飾されていたそうです。店内には、上野や浅草の料理屋の名が刻まれたものも掛かっています(写真左側の「三定」は、現在も浅草で営業中の老舗)。

参考文献

*1 洲崎遊廓物語 青蛙房 P.276-P.279 1988
P.285 JR総武線の下総中山駅近くに建つ中山法華経寺は吉原遊廓の人々が崇拝していた。もっとも、ちゃっ…

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北千住(芸者新道)見番跡地。千住宿の史跡。

千住宿の史跡、市郎兵衛本陣跡近く。

本陣跡の近くに、千住見番がありました。
見番の玄関には「千住芸妓組合千住支部」「全国芸妓組合千住支部」といった看板が掲げられていました。*1

明治時代、千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれ、花街が千住柳町に移転した大正8年以降も昭和18まで営業していました。この通りを見番横丁といっていました(説明文)。

見番があったあたり。

参考文献

*1 佐々木勝 日光街道千住宿民俗誌 名著出版 宿場町の近代生活 1985
P.210 見番横丁 見番は、佃屋という屋号で、石坂家が昭和18年まで代々やっていた。玄関には「千住芸妓…

人形町(小春軒)山県有朋のお抱え料理人が創業。

「玉ひで」など老舗料理店が並ぶ通り沿いに建つ洋食屋の「小春軒」は創業100年の老舗です。*1

小春軒は、築地精養軒のコック見習いを振り出しに西洋料理の修行をし、明治の元勲山県有朋のお抱え料理人となった小島種三郎が創業した洋食店です。「芸者さんが多い街はハイカラなものが流行る」と聞き、日本橋人形町に開業したそうです。*1

四代にわたって続くこだわりは「作り置きをせず、できたてを食べていただくこと」。店のモットーは「気取らず美味しく」。*1

海老フライとビールを注文。

参考文献

*1 竹内誠 日本橋・銀座の400年 ミヤオビパブリッシング ビジュアルアーカイブス : 東京都中央区 2013
P.148 明治二十八年(1895)、築地精養軒のコック見習いを振り出しに西洋料理の修行をした初代小島種三郎…

蒲田(「二業」の電柱標識)「二葉」と誤記も。

蒲田の二業地跡の電柱標識。当時の名残を示す「二業」の名前が確認できます。

手書きの「二業」。

かつての待合が集中していた一画。問題の電柱標識はここにありました。

この一画はすべて「二業」と書かれていますが、1本だけ「二葉」がありました。。おそらく、何かの都合で取り換えたときに誤記が発生したのでしょう。
電柱標識プレートには、遊廓の「廓」を廊下の「廊」と誤記した事例などを見かけることがあります。※1※2

蒲田(二業地跡地)かつての待合の雰囲気が残る建物。

かつての蒲田二業地は、現在は、住宅地となっていて、当時の名残はありません。

唯一、旅館だったと思われる建物が残っています。

石の塀。

かつての待合の雰囲気が残る建物。*1

参考文献

*1 上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008
P.231 ・旧見番があった場所にある2階建ての建物。 ・待合の雰囲気が漂う建物。

蒲田(二業地見番跡)現在も残る旧見番の建物。

今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みを散歩します。
蒲田の二業地は、京急蒲田駅から南へ500mほど離れた場所(現在の南蒲田四丁目20-24番地)に昭和2年に開設の許可が出されました。*1

現在も旧見番の建物が残っています。*2

かなり大きな2階建ての建物です。

花街の雰囲気が残っています。

参考文献

*1 蒲田町史編纂会 蒲田町史 市郡合併記念 1933 リンク
P.319 蒲田二業地は、昭和2年4月19日、許可となり、其の後直ちに地均し(じならし)に着手し、芸妓屋では…
*2 上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008
P.231 ・旧見番があった場所にある2階建ての建物。 ・待合の雰囲気が漂う建物。

神保町(スマトラカレー)共栄堂。大正13年創業。

神保町の靖国通り沿いにある「スマトラカレー」は、大正13年創業の老舗カレー店です。*1

明治の末、広く東南アジアに遊び知見を広めた伊藤友治郎氏より、スマトラ島のカレー の作り方を教わり、日本人の口に合う様アレンジしたのが、共栄堂のカレーです。※1

ポークカレーとビールを注文。

デザートの焼きリンゴ。
リンゴは紅玉。10月から4月までの限定メニューです。*2

参考文献

*1 スマトラカレー共栄堂 スマトラカレー共栄堂 共栄堂 リンク
当店のカレーは、大正13年の創業当時より、スマトラカレーとしてお客様に親しまれてきました。 明治の末…
カレーは、ポーク、チキン、海老、ビーフ、タンの5種。 リンゴは紅玉。10月から4月までしかメニュー…

新橋(南地花街跡)烏森神社付近

今回は、新橋(東京都港区)の町並みを散歩します。
新橋南地花街は、明治5年の銀座の大火で、金春付近にあった芸妓置屋が汐留川より南の烏森方面に引っ越したのが始まりです。*1
写真左手前にある「末源」は、明治42年創業の老舗です。*2*3

新橋南地花街(烏森花街)は、元は、同じ花街で、新橋駅を境に、煉瓦地芸者(京橋)と南地芸者(新橋)と芸者街が二つに分かれていたものが、大正11年に分離して「烏森」あるいは「新橋南地」となったものです。*4

烏森神社前の参道。平成13年頃までは、両側理に飲食店が建ちならんでいましたが、現在、左側は整備されて飲食店はありません。*1

参道右側に、わずかに残る飲食店。

参考文献

*1 上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008
P.36 銀座の明治5年の大火は、金春付近にあった芸妓置屋も焼き尽くした。そこで、芸妓屋や芸妓は、一部…
古今亭、末源、新橋芸妓組合、等の記載。
*3 新橋料理業組合 新橋 末げん リンク
三島由紀夫が最後の晩餐にした明治42年創業の老舗、「新橋末げん」。ほかにも原敬、六代目菊五郎などの…
*4 松川二郎 全国花街めぐり 誠文堂 1929
P.17 新橋の花街は元は烏森と一つの花街で、京橋と芝の区界である「新橋」を真ん中に、煉瓦地芸者・南地…

神田須田町(海老原商店)昭和初期につくらた看板建築。

今回は、神田須田町(かんだすだちょう、東京都千代田区)の町並みを散歩します。
秋葉原の万世橋を渡り、すぐに左へ曲がり、山の手線のガードをくぐると。柳森神社の前(柳原通り)に出ます。今は神田須田町二丁目ですが、このあたりは、元柳原町と呼ばれていました。柳原は、明治には古着市場であり、その後、既製服問屋街になりました。柳原通りは昭和初期にはかなりにぎやかだったそうです。この一画には、昔からの看板建築の商店が残っています。この付近は戦災の時に焼けないで残りました。*1

写真は、岡昌(おかしょう)裏地ボタン店(昭和3年築)。*2昭和通りに出る少し手前の右手に残るしゃれたファザードの一軒は、海老原商店という服地店です。*1*3*4

海老原商店は昭和初期(1927)につくられました。*1*3

2階窓下には、白漆喰による海老原商店の文字看板*3
上部には、ネオ・クラシックやアール・デコがミックスされたような装飾が上部についています。*1

参考文献

*1 海野弘 新編東京の盛り場 アーツアンドクラフツ 2000
P.250 万世橋をこしてすぐに左へ曲がり、山の手線のガードをくぐる。ここは柳原通りというらしい。町名も…
*2 交通新聞社 散歩の達人 No.179 2011
P.30 岡昌裏地ボタン店(昭和3年築) 明治30年創業の老舗は、初代が「岡昌夫」だから「岡昌」。この辺…
海老原家は、茨木健取手の出身で、1887年(明治20)頃に上京し、古着屋を開業した。震災後、既製品の洋服…
*4 日本文芸社 荷風!vol.23 2010.1
神田界隈「建物」探訪 旧・神田区に戦前の建築物を探して
P.30 看板建築は、関東大震災以後、急速に広がった商業建築で、防災を考慮して木造家屋の正面を銅板やタ…

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武蔵小金井(看板建築展)江戸東京たてもの園。

江戸東京たてもの園には、展示室があって、「看板建築展」開催中です。
看板建築は、関東大震災後、人々は、自力でバラックを建て始めましたが、このとき、バラック美しくする活動(今和次郎など)や建築家のデザインにりょう仮設商店などが建ち始め、これが後の看板建築につながったそうです。*1

本来、2階建てであるべきところ、少しでも広く使うために屋根裏部屋を設けた事例の模型が展示されています。*1

こちらは、ほぼ完全に3階建ての建物。

中央区月島の旧玩具店の建物に飾られていた、だるまの部分が移設、展示されています。

参考文献

被災者の多くは、焼け跡に自力で資材を集めて建てたバラックに暮らした。この様子を、「考現学…

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武蔵小金井(防火用水と木製ゴミ箱の展示)丸二商店。

江戸東京たてもの園、丸二商店の建物。
銅板で装飾された看板建築の建物です。*1

建物脇の路地も当時の情景が再現されています。

防火用水とゴミ箱。

木製ゴミ箱。コンクリ製ゴミ箱と形状は同じです。

参考文献

*1 東京都歴史文化財団 江戸東京たてもの園 解説本 2003
P.56-P.57 丸二商店は、現在の千代田区神田神保町に昭和初期に建てられた看板建築と呼ばれる形式を持つ建…

武蔵小金井(子宝湯)昭和4年の建築。「東京型銭湯」の特徴。

JR中央線武蔵小金井駅北口からバスで5分。小金井公園の敷地の中に、江戸東京たてもの園があります。
江戸東京たてもの園は、1993年、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目的に開園しました。*1

商店などの建物が建ち並ぶ東ゾーンの奥にある銭湯の子宝湯。1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられました。*2

格天井(ごうてんじょう)など、脱衣場は日本の伝統建築の空間。浴室はタイル張りなど、洋風の雰囲気が強い、いわゆる「東京型銭湯」の特徴*2 を持ち合わせています。

ガラス戸を介した縁側。*2

参考文献

たてもの園について 東京の歴史をふりかえると、江戸の昔から火事・水害・震災・戦災などによ…
*2 東京都歴史文化財団 江戸東京たてもの園 解説本 2003
P.44 子宝湯は、1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられた。施主の小林東右衛門(こば…

平塚(震災遭難者供養碑)平塚貸座敷組合が建立。

旧平塚遊廓の東端にある大鷲神社。


祠の脇に、震災遭難者供養碑があります


大正12年の(1923年)の関東大震災によって、平塚の花柳街、平塚遊廓は全半壊し完全なる家屋はありませんでした。被害を受けた平塚の遊廓は、復興に着手し、震災以後の平塚の妓楼は、福岡楼、新笹楼、相模楼、旭楼、東楼、平田楼、京友楼、金鱗楼、蛭子楼、第一松栄楼、第二松栄楼の11軒で、娼妓は130人が在住していました。*1


震災遭難者供養碑の裏側には、「平塚貸座敷組合一同」と刻まれています。

【参考文献】
今泉義廣:平塚花まち色まち物語(湘泉堂,2007)P. 104-P.105

蒲田(蒲田撮影所跡」の木柱)昭和25年「蒲田東映劇場」をオープン。

現在のアスレチッタ1階のエレベーターホールに「蒲田松竹撮影所跡」の木柱が建てられています。

川崎映画街を作った(株)美須商事(旧チネチッタ)は、昭和25年、この場所に「蒲田東映劇場」をオープンさせました(案内板より)。

アスレチッタの裏口(写真左側手前)。ここから、ニッセイアロマスクエア隣りのビル壁面に描かれている「松竹キネマ蒲田撮影所」の絵が遠望できます(写真右奥)。

蒲田の歴史を物語っています。

蒲田(松竹蒲田撮影所跡)二つの松竹橋。松竹キネマ合名社。

今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みと風俗を散歩します。
大正2年(1920年4)、松竹キネマ合名社が設立され、敷地として、蒲田の中村化学研究所跡に蒲田撮影所が整備されました。男女俳優の募集も行われ、その頃の日本映画では女性の役をほとんど”女形”が演じていましたが、松竹では”女は女優”の方針でした。1
撮影所があった敷地に建てられた大田区民ホール「アプリコ」(写真奥)前の植え込みには、撮影所の入口にあった松竹橋が再現されています。
2

松竹橋の親柱は、もう一つ、「アプリコ」の1階の入口付近に設置されています。

もはや現存しないものとされていた実際の親柱で、鎌倉在住の方から寄贈の申し出があり、70数年ぶりに、当地への里帰りが実現したものです(案内板より)。

「アプリコ」の地階には、全盛時の蒲田撮影所を再現したジオラマがあります。
正門前を逆川(さかさがわ)が流れ、そこに松竹橋がかかっていました。

【参考文献】
*1 永山武臣:松竹百十年史(松竹,2006)P.364-P.367
*2 大田観光協会:大田区観光ガイド(ハーツ&マインズ,2007)P.74

池袋(三業通り)昭和3年から始まった花柳界

JR池袋駅西口から北へ向かって進み、トキワ通りを超えて北へ進むと、「三業通り」と呼ばれる北西へ向かう通りがあります。この通りの西側に昭和3年から始まった花柳界がありました。
町会の名前に「三業」の名前が見られます。

三業通りというのは、この通りに面して池袋三業会館(見番)の建物があったからです。(写真のビルが旧池袋三業組合があった場所)

当時の面影を残す割烹料理店の建物。

「三業支」の電柱のプレート。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193

門前仲町(洲崎遊廓寄進の墓)浄心寺。カフェー組合の名。

深川の北側(江東区平野)の浄心寺に洲崎遊廓の関係者が寄進した供養塔があります。

カフェー組合の名。

貸座敷と刻まれています。

台座には、妓楼の屋号が刻まれています。

上野(五條天神社の奉納額)に待合の店名。大正十五年。

上野公園にある五条天神社。不忍池がすぐそばにあります。

大きな奉納額(大正十五年と記されています。)

奉納額の右側のほとんどは、待合の店名です。

江戸時代から明治時代にかけて、不忍池畔には、待合茶屋がありました。「東京新繁盛記」には、「名はすなわち茶店にして、その実はみずから酒肉を売るものあり。これを呼んで酔茶店と謂うもまた可なり。あるいは妓と客とを宿し、比翼の枕を貸すものあり。」との記述があり、こうした宿泊は、明治8年頃から盛んになりました。*1

左側には、見番や料理屋の名が書かれています。

【参考文献】
*1 遠藤鎮雄:百年前の東京風俗探訪(学芸書林,1976)P.78-P.79

尾久(荒川遊園)尾久三業近くの遊園地。

あらかわ遊園は、大正11年に開園した遊園地です。
当時のあらかわ遊園の案内には、「東京に最も近き避暑地」と紹介されています。*1

大正時代に開設された遊園地の中には、多摩川遊園地、本牧花屋敷、など付近に寺社が多く集まる地域があり、遊園地の開園と同時期にニ業地あるいは三業地が立地する場合がありましたが、あらかわ遊園の場合も同様で、近くに尾久三業が立地していました。

「遊園地」と書かれた電柱番号札。

墨田川からのあらかわ遊園の遠望。

【参考URL】
*1 あらかわ遊園ホームページ
*2 安野 彰,篠野 志郎:日本建築学会計画系論文集(1998)「遊園地取締規則」にみる明治・大正期の東京近郊の遊園地の概念–都市娯楽施設の史的研究 P.165

吉原(浄閑寺の永井荷風の詩碑)明治の文化また灰となりぬ。

今回は、三ノ輪~吉原(台東区)の町並みと風俗を散歩します。
三ノ輪の浄閑寺は、かつての吉原遊廓の近くにあって、遊女の遺体の「投げ込み寺」としても知られる寺です。

ここに永井荷風の詩碑があります。

これは「震災」と題した詩ですが、ここで震災というのは、大正12年9月1日の関東大震災のことです。死者9万9千500人、行方不明4万4千300人、母屋全壊12万8千戸、半壊12万6千500戸。そして消失がなんと44万7千100戸。地震の規模はマグニチュード7.9でした。*1

荷風の詩「震災」に、
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
とあるように、関東大震災で立ち上った火はみごとに江戸の都を焼き尽くしてしまいました。吉原は、すでに明治44年の「吉原大火で」江戸伝来の吉原の文化的残照は消滅していましたが、それでもなお、震災までの大正期は、まだわずかに江戸・明治の名残が漂っていましたが、それさえも無残に震災は奪い去りました。*1

その後、吉原は昭和20年の東京大空襲を経て、新しい「廓」として生まれ変わりました。
------永井荷風「震災」------
今の世の若きひとびと
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を
われは明治の児ならずや
その文化 歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
団菊はしおれて櫻癡は散りにき
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の声も亦耐えたりき
圓朝も去れり 紫朝も去れり
わが感激の泉 とくに枯れたり
われは明治の児なりけり
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ
江戸文化の名残烟となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
今の世のわかき人々
われにな語りそ今の世と
また来む次代の芸術を
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何をか見得べき
われは明治の児ならずや
去りし明治の世の児ならずや
【参考文献】
*1 渡辺英綱:新編・新宿ゴールデン街(ふゅーじょんぷろだくと,2003)P.227-P.232

南千住(三ノ輪商店街)荒川区随一の大商店街。

今回は、南千住(東京都荒川区)の町並みと風俗を散歩します。
 都電荒川線の終点の三ノ輪駅と国道6号線にの間に立つ梅沢写真館(旧王電ビル)に三ノ輪橋商店街(ジョイフル三ノ輪)の入口があります*1

建物の1階部分をトンネル状にくりぬくようにして商店街が続いています。

アーケードの入口。

 ジョイフル三ノ輪は、荒川区随一の大商店街で。そのアーケードは、総長465mで、約130軒の商店がひしめきます。*1

【参考文献】
*1 交通新聞社:散歩の達人(2204.2)P.10-P.11

赤坂(豊川稲荷東京別院)石垣には、寄進者の名前が彫られています。

赤坂にある豊川稲荷は、商売繁盛・盗難除けの御利益で有名ですが、芸事も上達すると言われ、赤坂芸者の信仰を集めました。*1

青山通りに面した石垣(大正15年建立)には、寄進者の名前が彫られています。

新吉原「大黒」。

洲崎遊廓の楼主たちは、赤坂の豊川稲荷を信仰していました。荒川楼、高橋楼、花井楼、北川楼などが判読できます。*2

【参考文献】
*1 小林奈津子:散歩の達人(1999.6)P.30-P.31「どこか一線を画す大人の赤坂」
*2 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.286

三津浜(稲荷新地遊廓跡地)現在は住宅地や工場用地となっています。

三津浜には、稲荷新地と呼ばれる遊廓がありました。場所は、旧お船場(現、住吉2丁目11)で、現在は住宅地や工場用地となっています。現在は埋め立てられていますが、当時は、この写真の道路部分(写真右側)は運河でした。*1*2
三津浜には、十軒茶屋と称する花街が住吉町にありました。伊予鉄道の三津駅が出来てから住吉町は賑わうようになり、貸座敷も開業されましたが、風紀上の理由から稲荷新地に移転し、三津の遊廓となり、大正から昭和初年が最も盛大でした。*3

こちらの寿司屋の付近までが、遊廓があった場所だったと思われます。*1

遊廓内には、稲荷神社があり、よく信仰されていました。*3
古地図*2 によると、稲荷神社があった場所は、内港へ向かうこの通りの東側(写真右側)です。

旧地名の名残と思われる「稲荷」と書かれた電柱のプレート。同じ場所に、「シンチ」と書かれた電柱もありました。

【参考文献】
*1 しあわせづくり三津浜地区推進委員会:三津浜ふるさと散歩道(しあわせづくり三津浜地区推進委員会,1999)P.6
*2 松山市立中央図書館:御津の歴史移り変わり「三津濱町図」
*3 三津浜郷土史研究会:三津浜誌稿(三津浜郷土史研究会,1960)P.37

三津浜(御船場)かつて軍港として栄えました。

今回は、三津浜(愛媛県松山市)の町並みと風俗を散歩します。
三津浜は、戦国時代、水軍の根拠地で、江戸時代は軍港として栄えました。三津浜港の東側は、御船場(造船所)と呼ばれ、作事小屋、材木小屋、舟道具小屋などが建てられていました。*1

現在も、その名残として、造船所や材木置き場があります。

明治維新により、軍港だった御船場辺りが開放され、石油売買所や配電所などが出来ました。*1

近年は、フェリー船の進出により、トラック輸送が主流となりました。内港に着く渡海船は少なくなり、漁協の漁船がけい留されています。*2

【参考文献】
*1 三津浜郷土史研究会:三津浜誌稿(三津浜郷土史研究会,1960)P.36
*2 しあわせづくり三津浜地区推進委員会:三津浜ふるさと散歩道(しあわせづくり三津浜地区推進委員会,1999)P.8

三崎(諏訪町の花街)通称「諏訪遊廓」跡。

北条湾に注ぐ狭塚(さづか)川下流の諏訪町のあたりは、遊廓から温泉街へと姿を変えていった場所です。*1

このあたりは、かつて北条花街があった場所です。

飲食店風の建物。

昭和33年に売春防止法が施工され、狭塚川の下流両岸にあった三崎花街は消滅し、その後北条温泉街として再出発しましたが、風呂へ入り、酒食を楽しむ人は多くはありませんでした。*1

【参考文献】
*1 辻井善弥:横須賀・三浦今昔写真帖(郷土出版社,2003)P.68

三崎(三崎港周辺)遊廓や花街があった頃は賑わっていました。

今回は、三崎(神奈川県三浦市)の町並みと風俗を散歩します。
一本帆柱の回船や漁船が近海を航行していた頃の非難港や風待ちの港に、なくてはならいものは、遊廓と日和山(ひよりやま)であったと言われています。*1
「続セピア色の三浦半島」 に掲載されている大正2年の写真には、こんもりとした丘のような日和山が写っています。日和山とは、出港時に船頭が、日和山に登って風の向きや日和を判断した場所のことで、天気予報のない時代には、日和見(ひよりみ)はかかすことのできないものでした。*1
下の写真は、同じ場所から見た現在の風景(城ヶ島大橋から撮影)ですが、日和山らしき丘は見当たりません。役割を終えて住宅地に変わってしまったようです。

三崎港の南側にある城ヶ島の遊ヶ崎から見た三崎港方面。

三崎漁港に船がたくさん入った頃は、北条湾に沿って走る市道に面して、町工場や水産会社並んでいましたが、現在は少し寂しくなったようです。*2

北条湾の様子。漁船が停泊しています。

【参考文献】
*1 辻井善弥:続セピア色の三浦半島(郷土出版社,1996)P.75-P.76
*2 辻井善弥:横須賀・三浦今昔写真帖(郷土出版社,2003)P.3

品川(天王洲運河)海岸線の名残。高層ビル群の景観。

「北品川の古い家並み」の南側の天王洲運河は、昔はここまでが海岸線だったところで、今でも海岸線の名残が感じられます。

この日はボラがたくさん泳いでいました。

運河の北側は、品川駅方面です。こちら側にも屋形舟がたくさん停泊しています。運河の向こうには、古い民家が数棟残っていますが、その向こうには、駅前の再開発によってできた高層ビル群が景観を圧倒しています。
写真左側には、都営北品川アパートが見えます。

都営北品川アパートから見た天王洲運河と屋形舟。手前には、「古い民家の家並み」が見えます。

吉原(観音様)関東大震災の悲劇。490人が溺死。

大正12年の関東大震災では、弁天池(花園池)に多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起りました。*1

弁天祠の築山に立つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため、大正15年に創立されたものです。*1

観音様。

関東大震災80周年の碑。

【参考文献】
*1 風俗散歩(吉原):弁天池の案内板(2006.7)

吉原(吉原弁財天の弁天池)金魚が泳いでいます。

吉原弁財天には、弁天池(花園池)が残されています。池にネットが被せられています。

池にネットが被せられているネットは、おそらく、池に泳いでいる金魚が盗まれるのを防止するためのもののようです。

金魚だけでなく、小さな緋鯉も泳いでいます。

日本橋の吉原遊廓(元吉原)が当時湿地だったこの地に移転(新吉原)しましたが、その際、湿地の一部を埋め立てた際、池の一部が残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめました。現在は浅草七福神の一社として毎年正月に多くの参拝者が訪れています。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなりました。(案内板より)

吉原(吉原弁財天)大門のレプリカ。福地桜痴の詩の復刻。

吉原弁財天へ立ち寄りました。入口には大門のレプリカが立っています。

右の石柱に「春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)」、これは仲之町通りに一夜で植えられた数千本の見事な桜樹を描写しています。*1

左の石柱には「秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)」とあり、享保11年(1726年)の春に急逝した、角町中万字屋(なかまんじや)の玉菊という花魁の追善供養のための盆灯篭が連なるさまを詠んでいます。*1 この燈篭は、俗に「玉菊燈篭」と呼ばれ、吉原の年中行事とされ、仲之町の桜、俄(にわか)とともに、吉原三大景容のひとつと数えられました。*2

石柱に彫られている詩は、これら「吉原三大景物」の一つづつを詠み込んだ福地桜痴の詩の復刻です。*1

*1 岡崎柾男:江戸東京伝説散歩(青蛙房,2005)P.143
*2 西山松之助:遊女(東京堂出版,1994)P.187

天王町(帷子川)尾張屋橋付近。

今回は、天王町(神奈川県横浜市保土ケ谷区)の町並みと風俗を散歩します。
浅間町に流れる帷子(かたびら)川。川にかかる尾張屋橋が見えます。

尾張屋橋の上り口のあたり。

尾張屋橋から横浜方面をみたところ。この川をずっと行けば横浜市内です。

尾張屋橋から見た住宅街。

北千住(大黒湯)キング・オブ・銭湯。大黒様と恵比寿様。

千住は銭湯の町なので、今回は銭湯をハシゴすることとしました。2軒目はキング・オブ・銭湯と呼ばれる大黒湯です。立派な宮造り建築です。

屋根の正面には大黒様。

左右には恵比寿様。

入口。

北千住(お化け煙突跡)煙突は遊戯施設として小学校に保存。

お化け煙突は、解体されましたが、その一部は千寿双葉小学校のすべり台として保存されています。
千寿双葉小学校は平成17年4月に千寿第三小学校と元宿小学校の統合により誕生し、1年間は元宿小校舎(千住桜木町)を使用し、平成18年に千寿第三小跡地(千住大川町)に建つ新校舎に移転する予定です。

運動場の木々の中にすべり台があります。

近くで見ると頑丈そうに見えます。

すべり台の裏にはプレートが取り付けてあり、次のように書かれています。
「四本煙突記念 通称千住のお化け煙突として親しまれてきた東京電力の四本煙突が解体されるにあたり、その一部(下部、直径6m重量約3t、半円分)の寄贈をうけた。これをながく本校にとどめ児童の遊戯施設として設置し記念とする。昭和40年1月」

北千住(元宿堤稲荷神社)おばけ煙突守護社。

千住には「お化け煙突」と呼ばれる大きな煙突が町のシンボルとなっていたそうです。千住柳町はお化け煙突の麓にあったわけです。
元宿堤稲荷神社はこの「お化け煙突」の守護社となっている神社です。

正式には「千住4本煙突」と呼ぶそうです。

略記に「4本煙突」の由来が説明されています。

狛犬

吉原(廿世紀浴場)アール・デコ様式。アーチ型窓の曲線。

台東区日本堤にある廿世紀浴場。建物は、昭和初期に流行したアール・デコ様式を取り入れた建築様式です。

正面入り口の両側のアーチ型窓の曲線は、アール・デコの特徴を残しています。

モダンな文字で、描かれた「廿世紀浴場」

銭湯の後ろ側。老朽化が進んでいます。