丸亀の現在の歓楽街は、遊廓があった港寄り(駅の北側)とは逆の駅の南側にあります。
富屋町(とみやまち)の商店街を抜け、京極通りを超えた大手町3丁目の北側に、バーなどが入居する商業ビルが建ち並ぶ一画があります。

交差点の商業ビル。

バー、マッサージ店の看板が乱立します。

2階への階段。

丸亀の現在の歓楽街は、遊廓があった港寄り(駅の北側)とは逆の駅の南側にあります。
富屋町(とみやまち)の商店街を抜け、京極通りを超えた大手町3丁目の北側に、バーなどが入居する商業ビルが建ち並ぶ一画があります。
交差点の商業ビル。
バー、マッサージ店の看板が乱立します。
2階への階段。
新堀遊廓跡*1 は、現在は旅館などが建ち並ぶ通りとなっています。
旧遊廓の西端にある三吉旅館。
港に通じる路地の左右に木造の建物が対峙しています。*1
「赤線跡を歩く」*1 に掲載されているなまこ壁のある氷屋さんの建物は無くなって、駐車場になっていました。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.87
丸亀には、福島と新堀、二つの遊廓が湾を隔てて対峙していました。*1
新堀遊廓跡にタイルで装飾された建物が残されています。
鮮やかな青のタイル。
アーチ状のデザインの玄関。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.87
丸亀駅の北口を出た西側に、一寸島(いつくしま)神社の鳥居が見えます。
鳥居には、嘉永の年号(1848年~1854年)が確認できます。
鳥居をくぐると、神社の本殿まで商店が両側に並ぶ通りが続きます。
逆方向から見たところ。
今回は、丸亀(香川県丸亀市)の町並みと風俗を散歩します。
福島遊廓は、明治20年頃に設立され、昭和初期には16軒の妓楼がありました。*1
道路に面して、鮮やかなタイルで装飾された建物があります。
玄関付近。
船がデザインされた窓。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.86
阿波池田駅から四国交通バスに乗って約1時間。「風呂の谷」バス停で下車します。バスは1日に3便しかありません。ここから祖谷温泉へ歩いてすぐです。
道がカーブしているこの場所に、小便小僧が立っています。
深く切り込んだV字谷に小便小僧は立っています。
造りはかなりリアルです。
なぜかお賽銭が・・・。どのような願いがかなうのでしょうか。
阿波池田の隣駅である佃駅(JR土讃線とJR徳島線の分岐駅)から徒歩10分のところに、モーテルだったと思われる建物が残っています。
古い看板がいい味出してます。
「空室アリ/満室」の表示看板。
いらっしゃいませ。
阿波池田の長尾通りに、隠れ家的な店があります。
レンタルルーム「めだかの家」。
スナック店のような雰囲気の入口のドア。
「エンゼル」と書かれています。
今回は、阿波池田(徳島県三好市)の町並みと風俗を散歩します。
阿波池田は、三好市の中枢となる町です。町の中心街の長尾通りは、小規模ながらスナックや居酒屋が連なる通りです。
スナック街の看板。
バスセンター前にある古風なスナック。
駅前の路地。
全国遊廓案内(昭和5年)によると、宿毛遊廓は、高知線須崎駅から宿毛まで汽船で行き、貸座敷の軒数は2軒と紹介されています。
昭和10年の「宿毛町明細圖」*1 には、一富士楼、新玉楼、万幡楼、昭和楼の四楼の屋号が記されており、宿毛の遊廓はこの時期に繁栄したようです。
その後、宿毛の遊廓は、自然災害と運命を共にすることになります。宿毛市史の災害の項目に「大正9年の台風によって、松田川新地(現大井田病院付近)の堤防が決壊し、百々鶴楼外四楼が瞬間に流失した」と、遊廓が消失したことが記されています。*2
遊廓があったと思われるあたり。
度々氾濫した松田川の堤防。
【参考文献】
*1 宿毛町商工会:宿毛町明細圖(東京交通社,1935)
*2 宿毛市史編纂委員会:宿毛市史(宿毛市教育委員会,1977)P.1186
今回は、宿毛(高知県宿毛市)の町並みと風俗を散歩します。
地元の方の話によると、第二次世界大戦当時、宿毛の片島には海軍の軍人さんが多く集まる料亭があり、芸者を置いている店もあったそうです。
港へ向かう通り。
1階に焼肉店が入っている旅館。
元旅館の建物。
高知の風俗街は、はりまや橋の南西側の堺町にあります。
ソープランドなどの風俗店に旅館が点在しています。
こちらは、ビジネス旅館街。
夜の様子。
市電の旭町一丁目電停。旧玉水新地の近くです。
ここに、飲み屋が集中している一画があります。
すぐ南は玉水町で、昔はこのあたりで一杯飲んでから玉水に遊びに行ったのでしょうか。*1
飲み屋街の北側の一画。
【参考文献】
*1 高知遺産プロジェクト:高知遺産(グラフィティ,2005)P.43
玉水新地跡。
用水路の北側には、当時の面影を残す旅館の建物が、今も健在です。
鮮やかな緑色のタイル。
奥行のある大きな建物です。
玉水新地は、明治から戦後にかけて高知市街の西のはずれにあった遊廓です。
用水路のを挟んだ南北の両側に妓楼が建ち並んでいました。
用水路には小さな橋がいくつもかかっています。
橋は、ひとつひとつが異なる形をしています。
橋の上からの眺め。
帯屋町の商店街。
制服専門店があります。
店先には、たくさんの種類の制服が陳列されています。
水色の襟の制服。最前列に陳列されています。
路面電車の大橋通り駅の近く(「ラヴィータ」の東隣り)に、短い小路があります。
居酒屋が建ち並びます。
連日、繁盛しています。
一直線に伸びる側溝。
今回は、高知(高知県高知市)の町並みと風俗を散歩します。
高知市街中心部のはりまや橋公園に「南国土佐を後にして」の歌碑が設置されています。
原詩・原曲は、第二次世界大戦中、中国に派兵された土佐出身の兵士が故郷を懐かしんで作ったものです。(案内板より)
歌詞には、よさこい節の1節「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た」が取り込まれています。
「南国土佐を後にして」は、昭和34年、歌手のペギー葉山さんが歌って大ヒットしました。当時の日本は、集団就職で多くの少年少女が都会に流入した時代で、高知県民はもとより、多くの人たちがこの歌に故郷を偲びました。(案内板より)
交差点にある赤い色のはりまや橋は観光用のもので、本当のはりまや橋は、こちらの鉄骨でできた橋です。
東急東横線の綱島駅と大倉山駅の中間あたり。大曽根商店街沿いに銭湯の大平館があります。
一見、普通の商業ビルですが、路地の奥に銭湯の入口があります。
風情のある玄関付近。
煙突には、「ラジウム温泉」と書かれています。
綱島駅の南側。大網橋を渡って300mほどのところに、東急線のガードがあります。
人がようやく通ることができるほどの高さのガードです。線路の枕木が目の高さぐらいの位置にあります。いつかどかで見たような懐かしい風景です。
自転車に乗った通行者が通り過ぎていきます。
轟音をたてて、頭上を電車が通り過ぎます。
綱島駅に隣接して「綱島駅ビル商店街」があります。1Fは東急ストアをなどの食料品街で、改札口とつながっています。
2Fの飲食店街は、昭和レトロな雰囲気が残っています。
ビルの老朽化が進んでいるようで、トイレは利用できない状態です。
3階より上は、立ち入り禁止です。
大綱橋北詰を西に入ったところに、ラブホテルが数軒建ち並ぶ一画があります。
綱島有料駐車場(写真左側)が隣接しています。
ホテルをご利用のお客様は無料です。
待合所まであって、至れり尽くせりです。
綱島駅の西側は、割烹旅館や温泉施設が密集するエリアでした。工事中のマンションのフェンスに、綱島の由来の説明書きがあります。大正15年に東急東横線の綱島駅が開業し、駅前にラジウム温泉浴場ができたことが書かれています。
現在のニックハイム第一(写真左側の工事中の建物)付近には、温泉施設の「行楽園」がありました。「行楽園」は、旅館の梅島、水明、甲子園、ひさごの4館の共同出資で、ラジオで「百円天国」と宣伝し、大繁盛しました。大浴場、大食堂、屋上の子供天国、ビヤホールを備え、お客は、芸能人の音楽や園芸を楽しめて1日大人100円。今日のヘルスセンターのはしりとなりました。*1
旅館の相川屋本館、梅島館、水明があったあたりは、現在は高層マンションとイトーヨーカ堂を中心としたショッピングロードに変わり、当時の面影はありません。*1
現在のパデュ通りを北側に入ったあたり(写真右側)に、検番がありました。*1
綱島温泉の中で最後まで残った旅館の「浜京」が地図に載っています。
【参考文献】
*1 「とうよこ沿線」編集室:わが町の昔と今1(「とうよこ沿線」編集室,2000)P.36,P.42-P.45
現在も残る料亭入船の遺構。
船のマークが鮮やかです。
現在は駐車場になっているこの場所には、料亭「新水」がありました。*1
駐車場の名前に料亭時代の屋号「新水」が使用されています。
【参考文献】
*1 「とうよこ沿線」編集室:わが町の昔と今1(「とうよこ沿線」編集室,2000)P.36,P.42-P.45
今回は、綱島(神奈川県横浜市港北区)の町並みと風俗を散歩します。
綱島温泉は、かつては大きな温泉街でしたが、現在は、数軒あるビジネスホテルにわずかにその名残をみることができます。
レトロな雰囲気の残る看板。当時は割烹旅館だったようです。
街道から奥へ入ったところにあるビジネスホテルの看板。
かなり大きな店構えです。