大下英治*力道山の真実永遠の力道山祥伝社2004
プロレスに目覚める
P.38 プロレス王として力道山の海の親となる一代の侠客、新田新作と出会ったのは、昭和23年5月、小結に昇進して間もなくのことであった。 P.47 昭和25年8月、人気力士、関脇力道山は、二所ノ関親方(先代玉ノ海)との間に、感情のもつれが出来、相撲取りをやめる決心をした。 P.52 新田は、力道山にとって最大の恩人となった。すでに浜町に二階建ての家まであてがわれていた。「新田建設資材部長」というのが力道山の肩書であった。 P.67-P.76 昭和26年9月。新橋のナイトクラグ「銀馬車」で日系2世のプロレスラーのハロルド坂田に出会い、プロレス転向を決意した。
力道山刺殺の瞬間
P.368-P.388 1963年12月8日夜十時ごろ、TBSを出た力道山は、赤坂の高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」ひさびさの酒で、したたかに酔っていた。バンドの演奏が終ると力道山はホステスと肩を組んでトイレに向かった。あとでわかったことだが、そのとき力道山はホステスの直美を一生懸命口説いていたが、ふられてしまった。ちょうどそこに通りかかった大日本興行(現住吉一家小林会)の組員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まない、で口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。力道山は、山王病院に入院。手術は無事に成功するが、術後、暴飲暴食を繰り返し体調悪化。12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。享年39歳。