神山弘 ものがたり奥武蔵 : 伝説探訪二人旅 金曜堂出版部 1984.12

黒山三滝と吉原講中

尾張屋三平の道しるべ

P.198

生町のはずれ、小川方面と黒山方面の三差路に二メートルの石柱が建っています。
(正面)日本無双 左 黒山三瀧道 二里
    江戸 正木龍塘 書
(側面)東都 新吉原講中
    建之 尾張屋三平
(裏面)慶応元乙丑歳 六月吉晨 助力当村中

この道しるべに従ってされに進むと、梅林入口の分かれ道に、
右 志かう道 二里
(正面)左 子ノ権現 三里廿九町
      高山不動 二里半
左 大平山 三瀧 一里十五町
元治二乙丑歳 二月吉祥日
(裏面) 新井三平 建之
     助力 当村中

そして、黒山のバス終点のつき当たりには、
(正面)日本第一 大平山 三瀧入口
(側面)東都 新吉原講中
    助力 津久根村中
(裏面)元治二乙丑歳 三月吉祥日 尾張屋三平

とあって、どれもが、元治二(1865)年の同時期に、尾張屋三(新井三平)が、新吉原講中と地元の村の協力を得て建てたことがわかります。
尾張屋三平は、本名を新井宗秀といい、越生梅林の近くの旧家に生まれ、波乱万丈の生涯を送った人ですが、幕末の江戸で吉原の遊廓の親分格となり、故郷を江戸にひろめ、こうした道しるべを後世に残したのでした。

黒山三滝の花魁道中

P.204

尾張屋三平は吉原でますます人気が高まり、この頃から吉原の講を率いて故郷に錦を飾るのを夢見たようです。一つには、根無し草同然の吉原の連中に、俺にはこんな立派な故郷も生家もあるのだぞと胸を張り、一方では、色々と迷惑をかけた弟宗直や村の人たちに吉原の遊郭にあってもただのヤクザや渡世人とは違うのだと言う姿を見せたかったのでしょう。

したがって、その道中も華美をきわめ、吉原の花魁道中の再現とまでいわれたそうです。三基の道しるべも、江戸の書道の大家にフデをとらせ、「日本無双」とか、「日本第一」とか、誇張して今の人たちの目から見る黒山三滝とは、大分イメージが異なるようですが、これこそ尾張屋三平の心意気だったのです。その証拠には生家のすぐ前梅林入口の道しるべには、新井三平と彫り、新吉原講中の名を除いていることでもわかります。さすが豪気の三平も生家の真ん前に、新吉原講中、講元尾張屋三平では、後世角上、新井家の人々へ迷惑が掛かりはしないかとの配慮がなわれていたのだと思います。