加藤晴美松岸地区における遊廓の成立と展開歴史地理学調査報告 11号筑波大学人文社会科学研究科歴史・人類学専攻歴史地理学研究室2004.03 リンク

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良福寺の過去帳に遊女の記載が初めてあらわれるのは享保9年(1724)の「イズヤ(伊豆屋)女郎」である。松岸に河岸が設けられ、「下町」が形成されたのが正徳年間から享保年間の初期と仮定すると松岸に河岸が開発されてから間もない時期に、すでに遊女の存在があったと推測できる。
松岸の遊女屋の発端は、槙問屋である伊豆屋が客の接待を目的として、酌婦的な女性を置いたことであり、これが遊廓へと発展したものと考えられる。

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松岸遊廓の最盛期は、銚子汽船と総武線開通によって客の範囲の広がった明治後期から大正期で、明治5年(1872)の資料によると貸座敷4軒が営業し、娼妓数は64名であった。

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明治31年(1898)に総武鉄道開通を記念して銚港神社に奉納された石灯籠には松岸遊廓の貸座敷、引手茶屋の名が刻まれており、貸座敷では開新楼、新盛楼、稲松楼、銚港楼の4軒、引手茶屋では、大阪屋、津の国屋、平田屋藤助の3軒が確認できる。貸座敷のうち開新楼は経営不振に陥った貸座敷を買得した宇野澤宇兵衛によって開業されたと伝えられている。

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明治後期以降、昭和16年(1941)の遊廓解散まで松岸遊廓において営業を続けていた貸座敷は、第一、第二開新楼の2軒であった。特に第二開新楼は、建物の壮麗さから、昭和初期の遊廓案内書(全国花街めぐり)では「龍宮城」などと形容されている。
開新楼を経営する宇野澤家は幕末期に松岸に移住してきたと伝えられ、貸座敷開業以前には女芝居の興行を手がけていたという。第一開新楼跡は現在結婚式場となっており、開新楼の中庭の一部が現在もそのまま残されている。

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良福寺にある宇野澤宇兵衛の墓は、寺の中でも最も大きく作られており、松岸における宇野澤家の存在を印象付けている。



この文献を参照している記事

松岸(宇野澤宇兵衛の墓)良福寺。開新楼楼主。
松岸(松岸遊廓跡地)龍宮城と形容された二軒の妓楼の跡地。