北茨城市史編さん委員会図説北茨城市史北茨城市1973
風船爆弾

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アメリカ本土攻撃のマル秘部隊
第二次大戦で敗色が濃くなってきた日本軍は、風船爆弾によってアメリカ合衆国を直接攻撃する「ふ」号作戦を展開。茨木県大津に部隊本部と放球攻撃の第一大隊を設営した。第二大隊は千葉県一宮。第三大隊は福島県勿来にあって、日本の三カ所から放球。攻撃は昭和19年11月初旬に開始され、同20年4月初旬に終わった。太平洋上空の高度8000から1万2千mを吹くジェット気流は晩秋から約五ヶ月間が最も強い。爆弾・焼夷弾を吊るしたおびただしい数の巨大な気球が浮上し、秘密攻撃の光景が見えないよう常磐線の列車は窓をヨロイ戸で覆って走った。

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世界史上に見られない仕掛け
風船部分は直径10m。手漉き和紙をこんにゃく糊で四層から五層に貼り合わせ、畳一畳分くらいの原紙にする。グリセリンで洗って柔らかい羊革のようにする。これを使って東京の日本劇場、宝塚劇場、国際劇場、国技館など、ドーム型の建物内部で気球に仕上げ、コンプレッサーで漏洩テストのための満球にした。主として女店員、女学生たちが動員されて作業にあたり、秘密保持を誓わされた。

兵どもが夢の跡
9,300個を放流。アメリカ合衆国、カナダ、アラスカ、メキシコなどに届いた風船爆弾は約280個ほど。戦局を左右させるほどの効果はなかった。オレゴン州で不発弾爆発のため六名が死亡。「第二次大戦のさなか、敵の攻撃のためアメリカ大陸で死者の出たたった一つの場所」という記念碑が建てられた。