倉賀野神社社報「くらがの」第63号倉賀野神社2017.10.19 リンク
太鼓橋のこと

倉賀野神社境内南側の一画に、大小二十数本の古い石柱が並べ寝かせてある。江戸時代、中山道倉賀野宿のちょうど中ほど、五貫堀川に架かっていた太鼓橋の欄干の柱といわれる。これまで長く民家の庭に埋まっていたのだが、歴史を語る貴重な文化財であるとして、掘り起こされ、保存のため倉賀野神社に運ばれ、仮置きされているものだ。「倉賀野宿の会」の『太鼓橋発掘調査報告』(平成二十四年五月)によれば、掘り出したなかに「寳蔵橋」と刻まれた石柱があることから、太鼓橋の正式名称が寳蔵橋(ほうぞうばし)と判明したという。(以下、便宜上「太鼓橋」のままに呼称する)

境内に置かれた石柱に目を戻すと、全部で二十七本。うち一本が「寳蔵橋」。十四本は「三蔦屋権之丞」「高崎田町信樂藤兵衛」など、男の名。残り十二本に「三國屋内 つね」「三蔦屋内 とく」などとあるのは、旅籠の女であろうか。太鼓橋は、薄幸の飯盛り女等がけなげに献金してつくられたのだという説もある。しかし一方で、倉賀野の旅籠屋中が、いちばん賑わう表舞台に掲げた広告塔だったとはいえまいか。大名も通る橋に、旦那衆と堂々と肩を並べてその名を刻んでいたのは、どのような女性だったのだろう。