浜松(ランプ横丁)豚と銭湯。居酒屋の裏口。

浜松市中区田町のランプ横丁。

居酒屋やスナックが連なります。

豚と銭湯をモチーフにした居酒屋の裏口。

逆方向から見たランプ横丁。

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参考記事

浜松(味の十八番街)中区田町。道幅の狭い横丁。

浜松の有楽街(浜松市中区田町)。

「味の十八番街」の入口のゲートがあります。

道幅の狭い横丁が続きます。

飲み屋と風俗店が混在する通り。

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浜松(門井ビル)ステッキガール生みの親にして育ての親。

浜松市中区田町にある門井ビルは、ステッキガール生みの親にして育ての親である門井襄三(かどいじょうぞう)氏のビルです。*1

門井氏は、”配膳会”という出張配膳婦の組織をつくた人物です。ゆくゆくは第二ステッキガール組織にする気ではないか、といったチマタの声がありました。*1

ビルの5階には、門井薬局がありましたが、開店休業のカタチでした。*1

門井ビルは、浜松市の一等地にあります。

【参考文献】
*1 扶桑社:週刊サンケイ(1971.8.9)P.69-P.71「おいろけ浜松にまた新名物〝出張配膳婦〟ステッキガール育ての親の薬剤師が想も新たに」

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浜松(二葉園跡)ビジネスホテルの裏木戸。「宝来」の屋号。

二葉遊廓は戦災で焼けましたが、戦後いちはやく再建され、不夜城としてネオンの輝きを見せました。入口には、「二葉園」と書かれたがゲートがありました。しかし、このネオンも売春防止法によって昭和33年には灯が消えました。*1 当時の名残の旅館が現在も営業中です。

ビジネスホテルの裏木戸(東側)。

当時の屋号。

「宝来」の屋号が残る看板。

【参考文献】
*1 谷昌志:懐かしの浜松(羽衣出版,2012)P.107

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浜松(二葉遊廓跡)高台に遊廓地を造成。「鴨江旅館街」の看板。

今回は、浜松(静岡県浜松市)の町並みと風俗を散歩します。 浜松の遊廓は、明治から大正にかけて伝馬町と旅籠町にありましたが、市街地の中心にあったため、大正11年に鴨江の高台に集団移転しました。*1
鴨江旅館街の大看板*2 は、現在は撤去されていいますが、「鴨江旅館街平成通り」の看板は、今も残っています。

遊廓跡地の西側。高台に遊廓地を造成したためでしょうか。段差が形成されています。

現在、公園になっている遊廓地の東側とは、レンガ塀で仕切られています。

フタバと書かれたの電柱番号札。

【参考文献】
*1 谷昌志:懐かしの浜松(羽衣出版,2012)P.107

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新居(飲み処かちどき)ボートレース浜名湖。

新居駅北川にある「ボートレース浜名湖」。

入口へ向かう途中に飲み喰い処「かちどき」があります。

店の名物の「かちどき」は、常連さんのほとんどが頼みます。今回はトマト杯でいただきました。

アルコール度数20度。360ml。強烈です。

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新居(小松楼まちづくり交流館)元芸妓置屋。建物の内部は当時のそのままの状態。

今回は、新居(静岡県湖西市新居町)の町並みと風俗を散歩します。 元芸妓置屋の小松楼は、「小松楼まちづくり交流館」として一般に公開されています。

建物の内部は当時のそのままの状態で保存されていて、国登録有形文化財に登録されています。

二階からの眺め。

当時の様子を伝える貴重な資料が展示されています。

【参考URL】
*1 NPO法人新居まちネット:「小松楼まちづくり交流館」公式ホームページ

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大鰐(若松会館)公衆浴場。橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所。

大鰐温泉の入口にあたる相生橋。

橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所は、現在は、大鰐若松会館に建て替わっています。

1階は、公衆浴場「若松会館」になっています。

大人入浴200円です。

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大鰐(大鰐見番事務所跡地)昭和40年設立。

売春防止法が施行され、置屋は全面廃止となり、芸妓たちは行き場を失いました。そこで、旅館組合の提案で、昭和35年、芸妓、お酌、民謡など約60名の会員で、大鰐温泉風俗営業連合会が設立されました。この会は、昭和40年、発展的に解消され、大鰐温泉見番組合が設立されました。*1

この付近に大鰐見番事務所がありました。

現在は駐車場になっています。

北側を流れる平川。

【参考文献】
*1 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(大鰐町,1997)P.770
*2 ゼンリン:南津軽郡大鰐町(ゼンリン,1984)P.7

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大鰐(大正5年の「大鰐温泉図」)加賀助旅館の跡地。

今回は、大鰐(おおわに、青森県南津軽郡)の町並みと風俗を散歩します。 大鰐温泉には、明治時代から続く古い旅館(加賀助、後藤、福津(大鰐ホテル)、山二(仙遊館))がりましたが、大正のはじめ頃、「温泉の発展には、料理屋がつきものだ」という持論を持つ外川平八が開拓を進め、大正のはじめ頃に紅灯街「外川町」が形成されました。*1

加賀助旅館の跡地には、大正10年に加賀助旅館に投宿した大町桂月の碑が建てられています。

大正5年の「大鰐温泉図」。翌年の大正6年の大火で相生橋から津軽味噌会社(マルシチ津軽味噌正油)までが全焼しましたが、すぐに復興し、6年後の大正12年には、料理屋は4倍の16軒に大増加しました。*2

特に、福津旅館の後の三階建ての大鰐ホテルや、後藤旅館やいくつかの料亭は、弘前の料亭や旅館を購入し解体して移転し、新式に立派に復興したことが大評判となりました。*2  「外川町」は、大鰐名物、鴈鍋(がんなべ、売春婦の異名)を抱えるあいまい料理屋の集娼地となりました。*3

藩政から明治時代にかけて、鰺ヶ沢4 や深浦の遊女たちは、港に船のいなくなる秋になると4人5人と連れ立って旅立ち、大鰐で稼ぎました。「大鰐のガンナベ」は、渡り鳥のような女たちをもじったものです。ある旅人が「大鰐に行ったらガンナベを食べて来い」といわれ、大鰐駅で「ガンナベはどこで売っているか」と駅員に聞いたという笑い話もあります。2

*1 陸奥新報社:わがふるさと第一編(陸奥新報社,1960)P.106-P.107 *2 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(1997,大鰐町)表紙前の見返し図,P.758 *3 陸奥新報社:陸奥新報(1984.5.4)P.6「津軽紅灯譚252 大鰐の料理屋(上)」 【参考記事】 *4 風俗散歩(鰺ヶ沢):新地町(2017.1)

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