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全年代 > 19世紀 > 1850年代(嘉永~安政)

関内(日米和親条約締結の地)その後、外国人相手の遊廓が開業。

今回は、関内(神奈川県横浜市中区)の町並みを散歩します。
横浜港の大桟橋近くにある開港広場

ここに「日米和親条約締結の地」の碑があります。

日米和親条約(1854年締結)は、鎖国制度が破られた歴史的条約です。*1

4年後(1858年)には、タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約が締結され、このときのハリスの要請により、外国人の相手を目的とした港崎遊廓が関内(現在の横浜球場付近)に開業されました。※1

参考文献

*1 山川出版社 日本史小辞典 日本史広辞典編集委員会
日米和親条約
1854年3月31日(安政元年3月31日)江戸幕府がアメリカ使節ペリーと横浜で締結した条約。長年の鎖国制度が…

参考記事

※1 関内(横浜公園)明治時代、港崎遊廓があった場所です。2007-04-26
※2 関内(岩亀石灯籠)横浜公園の中に移設された岩亀楼の遺構。2007-04-27

川崎(川崎宿の模型の展示)東海道かわさき宿交流館。

旧東海道川崎宿の通りに面したところに、「東海道かわさき宿交流館」があります。

3階と4階が展示室。

川崎宿の模型。ねずみ色の屋根は瓦屋根、茶色の屋根は茅葺き屋根を表しています。

江戸時代の雰囲気がよみがえってくるようです。

他に、幕末の安政4年(1857)に、アメリカの初代駐日総領事ハリスが宿泊した万年屋の展示などがあります。*2

参考文献

*1 東海道かわさき宿交流館 東海道かわさき宿交流館公式ホームページ
川崎宿模型 この川崎宿模型は、「東海道分間延絵図」(1806(文化3)年)を参考に制作したものです…
*2 東海道かわさき宿交流館 かわさき区の宝物シート
万年跡 リンク
■江戸時代に「奈良茶飯」が評判を呼び、宿場一の茶屋となった万年屋の跡地。多摩川を渡って川崎宿 に入っ…

浅草橋(首尾の松)吉原遊廓に行く通人たちが「首尾」を求め語った。

今回は、浅草橋(東京都台東区)の町並みを散歩します。
隅田川沿い(蔵前橋の西側)に松の木が生えている場所があります。

「首尾の松」の碑。

「首尾の松」の由来については、吉原遊廓に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところから、という説があります。(案内看板より)

隅田川沿いの名所江戸百景のモニュメントで紹介されている「首尾の松」。

向島(依田学海住居跡)「ヰタ・セクスアリス」文渕先生のモデル。

言問小学校前の通りに、成島柳北と依田学海の住居跡の案内板があります。

成島柳北(なるしまりゅほく)は、1859年(安政6年)に、「柳橋新誌」を執筆、柳橋(現在の台東区)の花柳界の変遷を描きました。

依田学海は、森鴎外の小説「ヰタ・セクスアリス」に登場する文淵先生のモデルです。

「ヰタ・セクスアリス」では、若い妾と幸せな日々と送っていたことが描かれています。*1

参考文献

*1 森鴎外 ヰタ・セクスアリス 新潮社 1993
向島の文淵先生
P.62-P.63  その頃向島に文淵(ぶんえん)先生という方がおられた。二町程の田圃を隔てて隅田川の土手を…

武蔵小金井(鍵屋)木製の熱燗機。カブトビールのポスター。

江戸東京たてもの園に移築されている居酒屋の「鍵屋」。
鍵屋は、1856年(安政3)に居酒屋として建てられ、その後、明治から大正、昭和初期まで酒の小売り店を営み、戦後の1949年(昭和24)、本格的に居酒屋として営業を始めました。金杉通りと言問通りがぶつかる角近くにあり、地の利に恵まれていました。*1

戦後の「酒はカストリ」の時代から店のメニューはしだいに増え、鰻の子のくりから焼き(=うなぎの串)や煮奴(にやっこ)、味噌田楽などそれぞれの肴が絶品と言われました。主人の清水幸太郎氏は無口で黙々と仕事をし、この店では女性だけの客、飲みすぎの客は断られました。

木製の熱燗機。

カブトビールのポスター。
カブトビールは、明治時代に、既存4大ビールメーカーに挑戦した愛知県半田市のビールです。*2

参考文献

*1 東京都歴史文化財団 江戸東京たてもの園 解説本 2003
鍵屋(居酒屋)
P.42 鍵屋は、1856年(安政3)に居酒屋として建てられたと言い伝えられている。その頃の得意先には、上野…
*2 カブトビール カブトビール 赤煉瓦倶楽部 リンク
明治時代に、大都市をひかえた既存4大ビールメーカーに挑戦した一地方都市のビール会社がありました。 そ…

この記事を参照している記事

鶯谷(鍵屋)江戸時代創業の居酒屋。黒板塀に徳利。

浅草(花やしき)日本最古の遊園地。150年以上前に植物園として誕生。

浅草五区にある遊園地の「花やしき」。
花やしき(花屋敷)は、150年以上も前に、楽しむための植物園として誕生したものでした。*1

「Beeタワー」「ヘリコプター」「スカイシップ」など、レトロな雰囲気を味わえる遊園地として存続しています。

花屋敷は、嘉永6年(1853年)に向島百花園の例にならって開園し、園内には「新登亭」という料理屋もありました。広重もこの花屋敷を画材としてとりあげています。*2

明治時代、花屋敷の新たな経営者となった山本金蔵は、明治20年、本所の材木商が所有する木造瓦葺き五階屋を一棟買収し、花やしきへ移築、「奥山閣」として公開し、凌雲閣(浅草十二階)*4 と人気を二分する浅草の新名所となりました。*1
明治30年刊行の「新撰東京名所図会」*3 によれば、「室内には、唐草模様を染めなせし紅の毛氈 (もうせん)一面に敷詰め、左右紫壇の床柱には、巖に瀧、松に雲を彫刻...」とあり、外観だけでなく内部も壮麗だったようです。

【参考文献】
*1 小沢詠美子:江戸ッ子と浅草花屋敷(小学館,2006)口絵,P.170-P.173
*2 内山正雄,蓑茂寿太郎:東京の遊園地(郷学舎,1981)P.3-P.5
*3 宮尾しげを:新撰東京名所図会 浅草公園・新吉原之部(睦書房,1968)P.83
【参考記事】
*4 風俗散歩(浅草):凌雲閣(浅草十二階)

浅草(フランス座)浅草六区。元ストリップ劇場。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
浅草六区の交差点の角に「浅草東洋館」と「浅草演芸ホール」が併設された建物(写真左側)が建ちます。

渥美清やビートたけしなど、数多くの役者や芸人を輩出した「浅草フランス座」が平成12年より「浅草東洋館」として生まれ変わりました。(案内板より)
フランス座は、昭和26年にオープン。昭和34年に東洋劇場として、軽演劇とショーとストリップとなりましたが、昭和39年、寄席とストリップとなりました。*1

浅草フランス座出身の芸人。

昭和23年以来、浅草ロック座の楽屋へ通い続けた永井荷風は、昭和28年にフランス座の楽屋を初めて訪れています。*2

【参考文献】
*1 佐藤洋一:あの日の浅草(武揚堂,2007)附図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.232

麻布(花街跡地)昭和12~13頃が最も賑わいました。

今回は、麻布(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
麻布三業地は、大正2年に許可され、戦前は、昭和12~13頃が最も賑わいました。空襲により麻布十番のほとんど全域が消失しましたが、昭和31年頃から2~3年間は、戦後で最も繁盛した時期でした。*1

花街は、現在の網代公園の南側(現在の麻布十番2丁目~3丁目)にありました。数年前まで、この付近に「白水」という屋号の料亭だったお宅の塀がかろうじて残っていましたが*2、現在はマンションに建て替わっています。

このあたりには、見番(麻布三業組合)がありました。*3

見番の南側の路地にも両側に料亭がありました。*3

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.151-P.154
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.118
*3 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分)港区 麻布十番方面・溜池方面

吉原(土手通り)吉原遊廓への道。当時の日本堤。

江戸時代、三ノ輪から浅草まで音無川が流れていて、その土手は日本堤と呼ばれていました。現在の浄簡寺の前に三叉路がありますが、そのうちの一番南側の路地が当時の日本堤です。*1

吉原への行き方には、いくつかルートがありましたが、その中の一つが、三ノ輪から日本堤を経由して吉原に至る道で、武士が使用することが多かったルートです。*2

しばらく歩くと公園につきあたり、その向こう側が土手通りです。

現在は道幅の広い平坦な道路となっていて、土手の面影はありませんが、「土手通り」の名前にかつての「吉原土手」の面影を見ることができます。

【参考文献】
*1 吉原健一郎:復元・江戸情報地図 P.65
*2 双葉社:江戸の華吉原遊廓(双葉社,2011)P.73

関内(岩亀石灯籠)横浜公園の中に移設された岩亀楼の遺構。

横浜公園の日本庭園の入口近くに「岩亀石灯籠」があります。

案内板によると、「岩亀石灯籠」は、妙音寺(港区三春台)から、横浜市に寄贈されたもので、岩亀楼にちなむ石灯籠です。

岩亀楼は、港崎遊廓において中心的存在で、外国人遊廓がこの岩亀楼を中心にして元締めのような形で運営されていきました。外国人が娼妓を妾にするときは、岩亀楼の許可をとらなければなりませんでした。*1

石灯籠に「岩亀楼」の文字が刻まれています。
港崎遊廓の岩亀楼は、純日本様式に西洋様式を加味したもので、二層楼は異人館と和人館に区別され、廓内第一楼としての建築の美しさを誇りました。*2

【参考文献】
*1 川元祥:開港慰安婦と被差別部落(三一書房,1997)P.91
*2 横浜市:横浜市史稿風俗編(臨川書店,1985)P.516

関内(横浜公園)明治時代、港崎遊廓があった場所です。

今回は、関内(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
関内駅前には、日本のプロ野球の横浜ベイスターズが本拠地として使用している横浜スタジアムがあります。スタジアムは、横浜公園の敷地内にあります。

横浜公園は、公園内に碑によると、明治9年(1876年)に設置された日本最古の公園です。

横浜公園ができる前、この場所には港崎(みよざき)遊廓がありました。
1858年(安政5年)、徳川幕府とアメリカとの間で日米修好通商条約が結ばれましたが、そのときアメリカから総領事として派遣されたタウンゼント・ハリスは、アメリカ軍兵士の慰安のため、徳川幕府に遊廓の建設を希望しました。幕府はこれを受け、駒形屋遊廓を建設し、これが後の港崎遊廓の前身となりました。港崎遊廓は壮大な規模で、現在の横浜スタジアムの敷地全体がほとんどすっぽり遊廓でした。*1

遊廓の正面は、横浜スタジアムの外野の外にあり、そこから東北方向に1キロも行かないところに横浜港があり、横浜港に立つと真正面に港崎遊廓が見えました。*1
写真は、日本大通りから横浜スタジアム方面を見たところです。
幕末の開港当時、日本大通りの南東側(写真左側)に外国人が暮らすための居留地設けられ、北西側(写真右側)が日本人居住地でした。*2

【参考文献】
*1 川元祥:開港慰安婦と被差別部落(三一書房,1997)P.65,P.83,P.95
*2 横浜開港資料館:横浜・歴史の街かど(神奈川新聞社,2002)P.18-P.19

真金町・永楽町(大鷲神社の玉垣)桂歌丸さんの玉垣があります。

大鷲神社の玉垣は、最近作られたと思われる新しいものですが、右の角に一本だけ黒御影石でできた古い玉垣があります。

表面の上部には、「遊廓」の二文字が刻まれています。

裏面には、3cm四方の枠入れの穴があり、奉納した年月「明治四十壱年四月納」が刻まれています。大鷲神社は、関東大震災と横浜大空襲により、遊廓とともに消失しましたが、玉垣のうち完全なものを一本だけ再利用したものと推察されています。*1

落語家の桂歌丸さんの玉垣があります。桂歌丸さんが住んでいた家は、真金町の遊廓「富士楼」でした。椎名巌(いわお)少年(本名)は、富士楼を切り盛りしていた祖母に遊廓内で育てられました。巌少年は、店の女の子たちに、「坊や、坊や」と可愛がられたそうです。*2

【参考文献】
*1 中村数男:横浜の遊廓の研究(横浜開港資料館)P.40,P.77
*2 桂歌丸:週刊文春(2002.11.7)「家の履歴書397」P.70-P.73

真金町・永楽町(大鷲神社)明治15年に現在地に移されました。

大鷲神社は、はじめ高島町遊廓の中にありましたが、高島町遊廓が真金町・永楽町に移転されることに伴い、明治15年にこの地に移されました。
大鷲神社の祭事に、酉の市があります。今年の酉の市は、11月4日、16日、28日です。

大鷲神社の中に、稲荷神社があります。
稲荷神社の賽銭箱のところに、遊廓の楼主と思われる2名の寄進者の名前が書かれています。

狛犬の裏側にも寄進者の名前が書かれています。松葉本店の松葉幸次郎は、理容館「永真軒」の顧客名簿(昭和18年7月付)に記載されており*1、当時の松葉楼の楼主であった人物であると思われます。

灯篭にも寄進者の名前が書かれています。「第三長盛」と右から書かれています。理容館「永真軒」の顧客名簿に長盛(支店)の名前があります*1 ので、「長盛の三番目の支店」という意味だと思います。下に書かれている名前は、楼主の名前であると推察されますが、判読が困難です。

横浜の遊廓建設は、「開港条約の締結(1856年)に伴い、必須条件の施設の一要素の一つとして、遊里の設置は、幕府の当事者と某領事との間の非公式折衝に成ったもの*2」とされており、都市建設の中で遊廓が建設されました。*1
作家の山崎洋子さんは、第32回江戸川乱歩賞を受賞した「花園の迷宮」の中で、横浜の遊廓と真金町・永楽町の遊廓について、次のように紹介しています。*3
「横浜の遊廓は、港崎(みよざき)遊廓(万延元年,1860年)に始まる。現在の横浜公園がその場所だ。-中略-だが、色街につきものの大火に何度か襲われ、遊廓はその都度移転した。吉田新田、高島町、そして明治15年に現在の真金町と永楽町の一部に落ち着いた。運河(現在は埋め立てられて大通り公園)を渡った向こうには、私娼街の曙町があり、そこは東京の玉の井同様、迷路のように道が入り組んでいる。しかし真金町は、柳並木の整然とした通りで区切られていた。」
【参考文献】
*1 中村数男:横浜の遊廓の研究(横浜開港資料館)P.1,P.77
*2 横浜市:横浜市史稿風俗編(臨川書店,1985)
*3 山崎洋子:花園の迷宮(1989,講談社文庫)P.32-P.34

秋葉原(講武稲荷神社)旧町名の旅籠町の名残です。

秋葉原の石丸電気の隣に講武稲荷神社があります。

講武稲荷神社は、花街の繁栄に貢献顕著だと言われ、近隣の関係者はもちろん、向島からも参詣者があったとされています。(説明文より)

このあたりは、旧町名で、旅籠町と呼ばれていました。旅籠町は、もとは、昌平橋外河岸通りにあって、そこは板橋宿・川口宿への街道筋にあたって旅籠屋が多かったことから旅籠町と名づけられました。その後、移転や合併により、現在の外神田1・3丁目の一部となりました。*1
稲荷神社に旅籠町町会と書かれた街路灯が記念に残されています。

今でも、旅籠町の名残を見ることができます。(古美術茶廊「伊万里」にて)

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(2006,東京堂出版)P.326