佐竹商店街の東側(小島一丁目)の清洲橋通り。

三軒長屋の商店。色は3色です。

2階部分。

後方に、3階建て部分が見えます。

1950ねんだい
佐竹商店街の東側(小島一丁目)の清洲橋通り。
三軒長屋の商店。色は3色です。
2階部分。
後方に、3階建て部分が見えます。
佐竹商店街から西へ入った路地。
看板建築の建物が残っています。
銅板建築。
隣のトタン建築の物干し台。
上野3丁目のビル街。
銭湯の燕湯は、国の登録有形文化財に指定されている貴重な銭湯です。
ビルの1階部分が宮型銭湯となっていますが、建物全体はビルになっている独特の建築です。
銭湯の裏側の通り。
上野アメ横の東側の通りにある玩具問屋「上野屋」。
創業は昭和25年(1950年)です。*1
店舗の前面には、マスク類が所狭しと陳列されています。宴会などで使用するおもちゃ類を販売しているようです。
看板には、「流行・教材・季節・景品・サービス・花火 各種玩具」「玩具問屋」と書かれています。
2階部分には懐かしいアニメなどのポスター類が貼られています。
ボビーオロゴン、美川憲一(コロッケ)。
幕張駅の北東側。徒歩5分のところにある銭湯の鈴の湯。
昔ながらの銭湯です。
銭湯には、破風屋根の軒下に細かな細工の懸魚(けぎょ)を見かけることがありますが、鈴の湯の場合は「鈴」のオブジェです。
「鈴の湯」と書かれた煙突。
江戸川区松島の住宅街の中にある銭湯の「旭湯」。
都内ではめずらしい、昔ながらの銭湯です。
中庭には金魚が泳いでいます。
建物の南側。
鶯谷駅南口の前から言問い通りへ向かう坂道の下。
老舗とんかつ店「とん平」があります。開業は戦後だそうです。
カウンター席だけのこじんまりとした店です。とんかつはロースカツとヒレカツのみ。
ロースカツとライス、ビールを注文。
浅草橋5丁目にある「すし栄」。
握り寿司とビールを注文。
かつての「すし栄」は銀座数店舗あったそうです。
ピンクの看板が目印です。地元の方の話によると、かつては「ピンク寿司」と呼ばれ親しまれていたそうです。
蔵前橋通りの南側。浅草橋5丁目に、銭湯の鶴の湯があります。塀や建物の壁面は鮮やかな水色に塗られています。
鶴が彫りこまれた懸魚は見事です。
料亭の建物のような意匠。
入口。
銀座線稲荷町駅近く。
銭湯の寿湯。
本格的な銭湯ですが、内部は改装されている部分もあって快適です。
入口。
上野公園通りを北へ進んだところにある老舗洋食店の「とうかい」。
洋食店のメニューはひとおり揃っています。
店内は質素ですが、非常に落ち着きます。
オムライスとビールを注文。オムライスは小ぶりながらも味は絶品でした。
福富町に隣接する吉田町。「野毛おでん」のある通り。この通りの向こう側は伊勢佐木モールです。
老舗天ぷら店。
「登良屋」の暖簾
天ぷら定食と日本酒を注文。
野毛の繁華街の南側。このあたりまでくるとっ少し落ちついた雰囲気の町並みになります。
中華料理「萬福」。町中華の王道を行くような佇まいです。
メーニューは、すべて漢字表記が加えられています。
サンマー麺とビールを注文。
大岡川に沿って建つ都橋商店街の西隣の飲食店街の建物。
2階が居住部分です。
ビルの1階はのほとんどは飲食店ですが、1店舗だけ理容室があります。
レトロなドアと外壁。
下館の稲荷町にある映画館の「シネマ1」。
遠くからでもこの看板を見つけることができます。
入口とチケット売り場。
大映映画の系列だったのでしょうか。
今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みを散歩します。
かつての遊廓だった丸山。寄合町に玉泉神社があります。
この玉泉神社の南側と東側には、遊廓時代からあった石塀が現在残っています。
南側の石塀。
東側の石塀。
志村坂上の城山通りを西へ進むと、銭湯の「熊の湯」に行きつきます。
前面部分は改装され、「湯ーとぴあ熊の湯」という名称になっています。
西側から見た外観。後方部分は昔のままの建築が残されています。
東側から。
成増駅から練馬駅行きのバスに乗って約10分。埼玉県和光市にある銭湯の「浩乃湯」。
昭和レトロな銭湯です。
玄関。
内部も昭和レトロです。
成増駅南口駅前のすずらん通り。古くからある商店街です。
すずらん通りにある成増マーケット
昭和な空間が残っています。
飲食店が営業中です。
花街があった中町の西隣の南町。
八王子三業組合の建物があります。
提灯。
三業会館の奥にある「三業稲荷」。
料理屋「すゞ香」*1 の北側。
黒塀に囲まれた置屋の「ゆき乃恵」。
建物脇の柳の木。
近くには、昭和30年代の花街の地図が掲示されています。
今回は、八王子(東京都八王子市)の町並みを散歩します。
かつて、織物業で栄えた八王子には、明治時代から花街がありました。現在も現役の花街として、中町には、料理屋が営業中です。
近年、黒塀が整備されるなどして、花街の風情が復活しました。
「すゞ香」は、当時の芸者衆の待合だった建物を改築したもので、今でも当時の面影が残っています(「すゞ香」の張り紙より)。
「八王子花街・黒塀通り」の説明書き。
大宮の南銀座。南銀座通り、ナンギンの通称で知られる繁華街です。
奇抜なデザインのアイスビル。
バーや居酒屋が入居しています。
「なんぎん」の呼び名は、昭和23年にアイスビルにより名付けられました。
白山花街があった白山一丁目の南側の通り。
銭湯の富士見湯があります。
現在は、一時的に休業中です。
手書きの看板。
仲町商店街の入口のすぐ左隣りにある「仲見世飲食街」
スナックもあるようです。
飲食街の奥の洗い場。
反対側の入口。商店街とつながっています。
厚木の芸妓の存在は、江戸末期にはあったとされ、江戸時代中期以降の大山参りの隆盛に伴い、遊興の地となりました。戦後、昭和29年には、「厚木三業組合」が結成されました。*1
厚木花街のあった寿町一丁目。北側の通りは飲食街になっています。
寿司屋や居酒屋が建ち並びます。
道がカーブしている場所。
料理屋と思わわれる屋号が残るお宅。
1970年代、厚木の料亭街には、芸者が150人ほどいました。*2
浅草寺病院の北側。浅草3丁目5−7のあたり。この付近には、料理屋が建ち並んでいました。
現在の浅草一文別館のあたり。
料亭「都鳥」。
新しいビルに建て替わっています。
浅草花街の歴史は古く、参詣客を集めた浅草観音の門前の茶屋に由来し、その時代は、明暦年間(1655~1657)にさかのぼります。*1
浅草花街の中心部に浅草三業会館の建物があります。
提灯。
レスリングの浜口京子選手の銅メダル獲得記念樹。会館の前に植えられています。
浅草ひさご通り商店街を北へ抜けた交差点のあたり。
「正直ビアホール」の建物が残っています。
昭和の初期から続く名店でした。
モダンなドア。
かつて佐原の花街があった周回する小路※1 にある稲荷神社。
玉垣に、花街の関係者の名が刻まれています。
色川八十八(いろかわ・やそはち)は、歴史家の色川大吉さんの祖父で、佐原の芸者屋「鹿島家(かしまや)」の経営者で、妻を7人も変えた男として知られていました。*1
佐原芸妓の開祖は、明治初年上仲町の「哥川」の「小よし」で、明治32~3年頃の成田鉄道開業の頃には、芸妓百数十名にのぼり、毎夜、賑わいました。*2
花街の関係者の名が刻まれています。
料理屋「寿茂登」※1 の裏側は、地元の方の話によると、かつての花街の中心地だったそうです。
小路の両側には、現在も料理屋が建ち並んでいます。
営業中の飲食店。
風情のある料理屋。
小路は、ぐるりと1周していて、元の大通りへ出ます。
今回は、佐原(千葉県香取市)の町並みを散歩します。
佐原信用金庫のある通りは、かつては、置屋や料理屋などが建ち並ぶ通りでした(地元の方の話)。
現在も割烹料理屋が散在し、当時の名残を感じます。
料理屋らしき建物。
上野写真の料理屋の脇の路地。
小川路地の北側の入口。
飲食店街を抜けると空地に出ます。
飲食店だったと思われる建物。
軒下に掲げられている屋号。
「昭和はじめの佐原の町並み」鳥瞰図と案内板※1 に記載の旧二業見番があったあたり。馬場本店酒造の東側の路地です。案内板に記載では、ここは小川路地と呼ばれていたそうです。鳥瞰図に記載のある、この路地の出口にある小川薬局(現存)が路地の名前の由来と思われます。
長く続く板壁を持ったお宅。
古い建物のようです。
逆方向(北側)から見たところ。
花崎町の旧料理屋※1 に残るコンクリート製ゴミ箱。
ゴミ箱状態。
権現神社裏の石碑の近く。外側のコンクリート部分だけが残っています。
保存状態の良いコンクリゴミ箱もあります(成田市上町)。
JR下総中山駅の東側にあるビル銭湯(写真左奥が総武線の高架です)。
天然鉱泉「滝の湯」。
総武線の車窓からも見える滝の湯の煙突。
建物の北側の通り。
西船橋駅前にあるホルモン酒場の「フナバシ屋」。
昭和27年の創業です。
居心地の良い店内。
焼き鳥7本盛りと日本酒を注文。
今回は、歌舞伎町(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
風林会館前に、現在も闇市の風情を残す横丁が残っています。*1※1
最近、「思い出の抜け道」と書かれたゲートができ、整備されたました。
少し奥へ進むと、以前の雰囲気が残っています。
南側の通路。
屋台のような店舗も健在です。
今回は、池袋(東京都豊島区)の町並みを散歩します。
池袋駅西口広場に広がっていたヤミ市は、徐々に規模を狭めながらも昭和38年まで生き残っていました。昭和38年にマーケットが撤去される前年(昭和37年)に開業した食堂会館「のとや」のビルが現在も残っていあます。(写真左側のビル)*1
翌昭和38年、マーケットは撤去され、食堂会館が西口広場の奥に輝くように建っていました。*1
このあたりに、「食堂会館のとや」の看板が掲げられていました。*1
現在も残る「のとや」の文字。
柳橋の花街跡。現在はビル街になっていて面影はありません。
当時の料亭と思われる建物。
当時の住宅地図には、料亭「宮城」と記されています。
旧料亭の建物は、次々とビルに建て替わっていく中、当時の建物が残っているのは、貴重と言えます。
銀座三越の屋上。
中央がお堂。左側に石像があります。
お地蔵さんは、現在の三越の裏手にあたる空地にあって、人々の信仰の対象になっていましたが、戦後になると、お地蔵さんは、キャバレー「美松」※1 の中庭につくられた祠に安置されました。ところが、昭和27年の秋に「美松」が火事に遭い、お地蔵さんは行き場をなくしました。昭和43年になってやっと安住の地を三越屋上に得ることができました。*1
お堂の中には、小さなお地蔵さん。
現在の三越百貨店新館がある場所には、かつて大型キャバレーの「美松」がありました。
昭和15年(1940年)、まだキャバレーという言葉がなかった時代(当時はカフェーと呼ばれていた。)に、大阪で「赤玉」などをやって当てた榎本正・明三兄弟が、女給が何百人もいるような「銀座会館」「美松」などの店をつくり、東京中を席巻しました。*1*2
戦後も1946年に営業を再開し、戦後を象徴する名門キャバレーとなりました。
昭和37年、保証金の高騰を理由に突然閉鎖。その後、三越に売却されました。
大勝軒※1 の向かい側。同じく戦前の建物の「鳥萬」があります。
食料品の店舗だったようです。
鳥萬の文字。
4階建てのように見える3階建て。
日本橋本町一丁目に残る中華料理店の建物。
昭和32年の建築です。
建物の側面。一面が緑色のタイルで覆われています。
鮮やかな青いタイルで装飾された「大勝軒」の文字。
1階部分は洋風の雰囲気です。
八重洲一丁目の繁華街。日本橋花街の雰囲気を受け継ぐ老舗割烹「嶋村」が現在も営業中です。
創業嘉永3年(1850年)の老舗です。
名物の金ぷらなど、昼のランチもあるようです。
年季の入った提灯。
早稲田通り沿いにある老舗蕎麦店。ここも2階は学生ローン※1 です。
蕎麦だけでなく、丼ものも充実しています。
店内には早稲田の旗。昭和15年頃まで早慶戦で早稲田が勝つと、商店街に掲げられたそうです。
うな丼セット(980円)と日本酒を注文。
新小岩駅の北。駅前の繁華街からは離れた住宅街に銭湯の千代の湯があります。
シンプルな外観。
レトロな銭湯でありながら、ハイカラな感じの銭湯です。
浴室の背景は、常夏の海をイメージした海岸の絵。天井は、水色、グリーン、肌色の3色模様、と独特の雰囲気です。
コインランドリーが併設。
今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の八重洲一丁目付近は、江戸時代の市街造成期からの古い町並みです。明治維新後は、新時代を代表するような近代諸会社とこれと全く対照的な下町の商店や芸者屋・待合が奇妙に混在する町でした。*1
検番があったあたり。*2
旧花街の南端。「浮舟」は、昭和の初めからある老舗です。*3
日本橋芸者の起源は、安永6年(1777年)、平松町(現高島屋辺り)に芸者がいたことが、「妓者呼子鳥(げいしゃよぶこどり)」に書かれています。*2
今回は、小岩(東京都江戸川区)の町並みを散歩します。
JR小岩駅改札口にある栃錦像。昭和の大横綱です。
右手や両膝の内側あたりは、多くの人に触されて金色に輝いています。
お尻もピカピカです。
乳首も。
千住5丁目にある銭湯の梅の湯(現在は廃業)。
かつては、昭和初期の建築で、外観、脱衣場をほぼ新築時の姿のまま残す貴重な銭湯でした。*1
オゾン浴泉
北側見た建物の外観と煙突。
南側の駐車場から。
毎日通り飲食店街の北側の入口。レトロな電飾看板が建っています。
この看板を支えているのは、レトロ電柱。
今では、ほとんど見ることができなくなったレトロ電柱ですが、毎日通り飲食店街の一画には、10本以上残っています。
レトロ電柱のほとんどは、実際の電柱として活躍中です。
西小岩の武蔵湯。総武線の車窓からも見える銭湯です。
美しい煙突。
入口にはタイル絵。
最近、内装リニューアルされたらしく、床やロッカーは綺麗で快適です。
廃材置き場。
高田馬場駅前。JR山手線(写真左)と西武線(写真右)と神田川に囲まれた一画に、小規模な飲み屋街が形成されています。
昭和30年頃の住宅地図*1 を見ると、この一画は、「のみや」「ぜんぶのみや」などと記されています。
昭和37年の駅前再開発※1 の後、数年間は「のみや」が残っていましたが、その後は、写真のような飲食店街兼高層マンションに建て替わり、立体化が進みました。
かつては、柳小路というしゃれた名前がつけられていたこの一画。1960年代までは、スラム街同様のドブ小路だったそうです。*2
話はさらに遡りますが、この一画に昭和25年(1950年)、特飲街を建設しようという話が持ち上がりました。*3
ちょうど大田区の池上の特飲街騒動*4※2と同じ時期に、高田馬場でも同様の騒動があったわけです。
夜の飲み屋街。
高田馬場駅の西武新宿線のガード下は、戦後、バラック飲み屋の一群がありました。*1
現在もその名残の飲み屋街が続いています。
3階建ての建物。
戦後の住宅地図*2 によると、神田川近くまで建物が続いていました。
京島三丁目は、昔ながらの住宅街です。
物干し台のある木造家屋。
木製の支柱。
スカイツリーと物干し台。
旧赤線街「鳩の街」*1 の北端あたり。
青の円柱の建物が残っています。
1階から2階へ突き抜ける円柱。
青一色で統一されています。
数年前までは、いくつか当時の建物*1 が残っていた通り。
多くの建物が消失する中、こちらの建物は当時のままで残っています。
黄緑色を基調とした窓の廻りの装飾。
現在も鮮やかなタイルの装飾。
今回は、鳩の街(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
入口のシャッターには、富士山の絵。
お湯は木材で沸かしているようです。
煙突。
料亭「花の里」(墨田公園少年野球場近く)の西隣に、周囲は開発が進むなか、木造家屋が奇跡的に残る一画があります。
狭い、曲がりくねった路地が続いています。
かつては、料理屋や旅館でした。
貴重な木造建築です。
向嶋墨堤組合*1 の南側。
待合の建物が当時のままで残っています。
待合らしい細工が施されています。
塀の腰廻り部分に木材を配しています。
向島見番の前の通り。
交差点の角にある古い木造家屋は菓子の「いりむら」です。*1
その隣。料亭「波むら」との間に、待合「桝の家」の建物が残っています。(写真左側)
玄関。
待合だった頃の風情が残っています。
向島を代表する老舗料亭の「入舟」。
昭和20年創業。建物は50年前に建てられたものです。*1
通用口。
料亭きよし。
昭和24年開業の老舗料亭です。*2
老舗料亭です。
猿之助横町の西側(国際通りに近いあたり)は、スナックが密集するエリアです。
長屋風の建物のスナック。
レトロな外観。
酒処まり。
猿之助横町は、昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画でした。*1
料理屋らしき建物。
国際通り近くにある和風の建物。
ヘルストロンの路地※1 の1本隣り(西側)の風情のある路地。
浅草の浅草寺の東隣にある旅館「一富士」。
落ち着いた佇まいの和風旅館です。
白い塀に、一富士の看板。
一富士旅館。
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みを散歩します。
花街があった浅草三丁目の東側のはずれ。このあたりまでくると、店舗はまばらになります。
昭和26年の火災保険地図*1 によると、この場所に「浅草ニュートルコ」の記載があります。
トルコ風呂と言えば、昭和26年に銀座に開業した「東京温泉」が第1号というのが、定説となっています。※1
これと、時を同じくして、浅草にも開業していたようです。
隣の歯科医院は、当時も同じ場所にありました。*1
現在は、マンションが建っています。
西五反田の住宅街。写真の左手は小学校の運動場です。
見事な破風の屋根の外観。大型の建物です。内部は天井が高く開放感があります。風呂桶が木製であることも魅力の一つです。
昔ながらの銭湯です。
短く太い煙突。
五反田駅前のL字型の路地。※1
昭和25年創業の老舗洋食レストランです。*1
飲食店が建ち並ぶ路地に建つ蔦の絡まる建物。
建物の1階部分はレンガ造り。
ハヤシライスを注文。デミグラスソースの有名店だけあって、味は絶品です。
最近、事件で報道された「海喜館」。
五反田三業の面影を唯一残す旅館の建物です。10年前は、入口も開放されていて、「海喜館」の看板もありました※1 が、現在、入口は閉鎖され、看板も取り外されました。
建物は、老朽化が進んでいます。
建物の周囲はシートで囲われています。
目黒川の対岸から。
五反田花柳界は、三業組合と呼ばれていたた当時までは、盛んであったが、戦後は売春防止法の制定によって、「待合い」に於ける売春の取り締まりと共に、「待合い制度」が廃止され、二業組合に衰退の一途をたどりました。*1
待合が密集していた通り。
現在は、マンションが建ち並ぶ町並みとなっており、花街の名残はありません。
一本南側の通り。この通りにも両側に待合が建ち並んでいました。
目黒不動の門前には、関東大震災直後、隣接町村の目覚ましい発展に伴い、花街ができました。主な料理屋は、「角伊勢」と「大国家」で、その他は、待合形式の家がありました。*1
現在の商店街に見番がありました。*2
見番脇の路地を下ったところ。「ちとせ」「一力」がありました。*1
大国家があったあたり。*2
目黒園があったあたり。*2
足立区千住柳町にある銭湯の金の湯。
外観は、近代的銭湯のように見えますが、内部は昔ながらの銭湯です。
玄関の傘立て。
真っ白の煙突。「金の湯」の文字が目立ちます。
かつて千住遊廓があった千住柳町。写真の通りの両脇が遊廓地でした。*1
現在は遊廓時代の面影はありません。
唯一の名残とも言える電柱標識。「廓支」と書かれています。
さて、問題の電柱標識はここからです。古いタイプの標識を見ると「廊支」。これまで幾度となく見てきた※1 廊下の「廊」です。正しい「廓」の表記は、上の写真の1本のみで、他の電柱のほとんどがこの「廊」でした。
1本だけあった、いらがなの「くるわ支」。平仮名表記の廓(くるわ)は、初めて見る事例です。
今回は、北千住(東京都足立区)の町並みを散歩します。
千住大門商店街は、昔ながらの風情の残る商店街です。
古びた寿司店があります。
ランチは、11:30からラストまで。海鮮丼は600円です。
海鮮丼とビールを注文。味は絶品でした。
今回は、西小山(東京都品川区)の町並みを散歩します。
西小山花柳界の全盛は昭和10年前後で、芸妓は120人がいましがた、太平洋戦争が始まると戦時体制が強化のため、料亭・待合は営業停止となり、戦後再出発しましたが、戦前の勢いは失われていました。*1
料亭「寿づき」があったあたり。
その奥にも料亭がありました。
料亭「小港」「川よし」があったあたり。
中野区弥生町(中野新橋を流れる神田川の南側)にある藤神稲荷神社。
石碑には、戦前は、夜店等が出て賑やかだったことが書かれています。
中野新橋三業組合寄進の玉垣。
料亭「とんぼ」、料亭「寿楽」*1 でしょうか。
花街の範囲は本町三丁目の2~11番地までと本町5丁目の2~6番地で、本郷氷川神社手前まででした。*1
本町3-8ー5のカーサアルハムブラマンション脇。
三業組合が信奉した悠池弁天社が建っています。
弁天社。
神田川の北側(本町3-9)。
最後まで残った料亭「亀太川」の建物があります。*1
玄関付近。
花街らしい雰囲気が塀に残っています。
今回は、中野新橋(東京都中野区)の町並みを散歩します。
神田川に架かる中野新橋は、中野新橋の名前の由来となった橋です。この橋の北側には、三業会館の建物がありました。*1
立派な擬宝珠が橋の四隅にあります。
橋の北側に当時の青銅製の擬宝珠が残されています。案内板によると、擬宝珠は、地下鉄丸の内線が開業した1961年に橋が架けれたときのもので、2011年まで、親橋の頂部に取り付けられていたそうです。
神田川。
王子の豊島に指定地(芸妓屋待合)が公許されたのは昭和四年で、「王子新地」の俗称で呼ばれました。しかし、料理屋は、指定地内の他、駅前の代表的料亭「扇屋」、音無橋畔、御殿下に「養老館」、王子稲荷などに散在していました。*1
写真は、料理屋の「君の家」があった場所*2 に建つ食堂。
芸妓屋の浪の家があったあたり。*2
塀横の意匠。
逆方向から。
王子駅前にある飲み屋街の柳小路。
スナックですが、時間制(オールタイム60分3,000円)のようです。
ひょうたんの意匠の小料理屋。
中央部分の建物が無くなって更地になっています(写真手前部分)が、飲み屋街は、健在です。
今回は、王子(東京都北区)の町並みを散歩します。
JR王子駅前のさくら新道は、風情のある長屋の建物が印象的な飲食街でしたが※1、数年前に南側半分が火災で焼失してしまいました。
1階部分はベニヤ板でふさがれていて、ほとんどの店舗が休業している模様です。
南側の建物があった場所は空き地になっています。(写真の手前側)
歌えるスナック。
かつての品川三業地。※1
写真の通りが三業地の中心部で、芸妓屋の清河、菊の家、冨久家、金吉田、福よし、宇田、由多か、米原、料理屋の菊の家、がありました。*1
現在は住宅地となっていて名残はありません。
唯一、電柱に「三業支」と書かれたプレートを確認することができます。
西側の通り。芸妓屋の梅家、春本、田中、新春本、一富士、料理屋のみかど、根岸、新福がありました。*1
写真奥には、品川の高層ビル。
今回は、品川(東京都品川区)の町並みを散歩します。
品川三業地は、昭和7年に、街道沿いから現在の東品川1丁目の一画に移転し、品川海岸三業株式会社を設立しました。*1
三業地の北側の交差点の角に建つ料亭「文の家」の遺構。*2
当時の雰囲気が残っています。
2階部分。
昭和25年(1950)に池上本門寺前(現池上四丁目)に11軒の歓楽街が出現したことに対し、地元PTAを中心とした反対運動が起こり、全都的な問題に発展。参議院厚生委員会がこれを正式にとりあげるなどした結果、2ヶ月に及んだ反対運動が結実し、業者側は自主的な建設中止に追い込まれました。*1
特飲街があったあたり*2は、現在は住宅街となっています。
その後、特飲街の建物は東京都教職員互助会の所有となり、教員寮となりました。
現在その場所は駐車場になっています。*3
特飲街の東側のエリア。
かつての特飲街の東南の一画。現在は飲食街になっています。
大井町の東小路の飲み屋横丁。横丁でよく見かけるトイレがここにもあります。
綺麗に清掃されたトイレ
公衆トイレではなく、組合員専用だそうです。
水を流してください、と書かれた看板。
大井町の東小路の飲み屋横丁。
2本の小路を横に横断する通路。
スナックもあります。
立ち飲み屋チェーンの晩杯屋。
今回は、大井町の町並みを散歩します。
建物の側面。
隣が空き地になっている一画。
周囲は開発が進んでいます。
吉原ソープランド街の江戸二通りと角町通りの間の通りに旅館の建物が現在も残っています。
1993年頃までは、「浅草ホテル」として営業していました。*1
2階部分
現在も残る看板。
千束3丁目にある名物カツ専門店。
昭和の洋食店の雰囲気です。
店内には、先代がホテルの料理人だった頃GHQから頂いた手紙が展示されています(写真上部)。
とんかつライスを注文。
国道14号線(千葉街道)沿いの歩道にある「鷺沼温泉」。
昭和4年から80年間営業している銭湯です。
映画のセットでも見ているかのような脱衣場。
浴場は、さらにレトロです。
銭湯の裏側。地元の方の話によると、昔は重油で沸かしていたが、最近は供給が多い廃材で沸かしているとのことです。
根岸柳通りにある商業ビル。1階が店舗で2階が居住部分です。中央には、「婦人倶楽部」の看板のある商店。「婦人倶楽部」戦前・戦後を通じて発刊された婦人雑誌です。
女のよろこび・・・・・妻のしあわせ
建物の紋章。スッポンのように見えます。
建物の裏側、表側は、複数の店舗が一体感のある商業ビルに見えますが、裏側の構造は複雑です。
正岡子規文学碑(お行の松)がある場所にある不動尊。
寄進者の名が刻まれた玉垣。
根岸三業会の名が残っています。
料亭らしき屋号。
今回は、根岸(東京都台東区)の町並みを散歩します。
台東区根岸の根岸柳通り周辺には、かつて花街がありました。
往時の面影を残す「浜本」という料亭だったお宅。*1
根岸の花街は、通人の隠れ家遊び場所として流行った花街で、客筋は根岸、金杉、坂本など近隣の旦那衆が多く、人力車で遊びに来る者もいました。*1
2階部分に花街だった頃の風情が残っています。
神田多町周辺は、神田川と日本橋川まれ、この2つの川の水運により食料も集まりやすうい立地から「やっちゃば」と呼ばれる青物市場ができきました。「越後屋」は創業明治末。市場で買った荷物を揃え、配送する権利を持っていました。*1
正面部分のみ銅板が貼られています。
建物の奥を見ると、3階建てであることがわかります。
逆方向から。
今回は、駒込(東京都豊島区)の町並みを散歩します。
駒込駅の南側。線路沿いの坂道の途中に建つ旅館「江戸駒」。昭和30年代のオールドファッションスタイルです。
和風の佇まいは癒されます。
全室和室で、数寄屋造り。次の間付きです。
懐かしのスタイル。価格も安価です。
日本橋小網町の首都高速江戸橋ジャンクション近く。閑静なビル街の中に佇む芸術的な看板建築。
桃乳舎。
上部には、桃のマーク。
カレーライスを注文。
人形町交差点。地下鉄の入口のすぐ隣にある洋食店の「キラク」は、1951年開業の老舗です。*1
年季の入ったキラクの看板と暖簾。
一番人気のビーフカツ。*1(これだけで2,600円もします。)
今回は、ハンバーグとビールを注文。
マカロニサラダと千切りキャベツ、パセリが添えてあるのは、昔と変わっていません。*1
人形町2丁目。かつての花街だったエリアです。喜寿司(㐂寿司)は、花街の面影が残る建物です。
たくさんの大きな看板。
隣の歯科医として使われていた建物は、もとは「待合(芸妓と遊ぶ場所)」でした。*1
物干し台。
今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
大観音寺脇の路地※1 にひっそりと佇む「よし梅本店」。戦火を免れて残った店の風情は江戸の粋が薫る人形町ならではです。*1
入口が路地になっていています。
かすれて、かろうじて「よし梅」と判読できる門標。
反対側の通りから。