天神町にある玄法院。立派な本堂があります。
境内に、芸妓が寄進したと思われる石の台座が残されています。
台座には新柳町の芸妓屋と芸者と思われる名前が刻まれています。
新柳町は、遊廓と芸者屋が混在していました。明治28年(1895年)の「新柳町明細地図」には芸者屋「森田」の名が記されています。*1
江戸時代、甲府柳町一丁目(中央四丁目)の旅籠屋には、一軒につき2人までの飯盛女を置くことを許されていましたが、1870(明治3)年5月、官名が出され、七軒が移転。「新柳遊廓」と称しました。*2
天神町にある玄法院。立派な本堂があります。
境内に、芸妓が寄進したと思われる石の台座が残されています。
台座には新柳町の芸妓屋と芸者と思われる名前が刻まれています。
新柳町は、遊廓と芸者屋が混在していました。明治28年(1895年)の「新柳町明細地図」には芸者屋「森田」の名が記されています。*1
江戸時代、甲府柳町一丁目(中央四丁目)の旅籠屋には、一軒につき2人までの飯盛女を置くことを許されていましたが、1870(明治3)年5月、官名が出され、七軒が移転。「新柳遊廓」と称しました。*2
1774(安政3)年以降、徳川幕府は期間を限って甲府柳町一丁目(中央四丁目)の…