雑餉隈(スナック店)寿町

雑餉隈の寿町3丁目から2丁目にかけては、多くのスナックが点在するエリアです。

三叉路に面したスナック。

長屋風の建物。

風俗店も入居する飲食ビル。

雑餉隈(駅前の商店街)青果店

今回は、雑餉隈(福岡県博多区)の町並みと風俗を散歩します。
西鉄天神大牟田線の雑餉隈駅前の商店街。昭和のかおりが残ります。

青果店を中心とした商店が数多く建ち並びます。

まるで、市場のような雰囲気です。

活気のある青果店。

本庄(飯玉新地)昭和3年、本庄町の貸座敷が移転

本庄市東台2丁目。居酒屋などの飲食店が数店舗あります。

この先の交差点を右折した一画は、かつて「新開地」と呼ばれた場所でした。

昭和3年秋、本庄町の貸座敷は、台町の新開地に移転しました。戦後は、アメリカ軍の本庄進駐に伴い、「慰安所」が設けられました。*1

新開地は、懸賞募集した「飯玉新地」と名付けられました。*1

【参考文献】
*1 本庄市史 P.176-P.187

本庄(普寛霊場)寄進者に吉原の楼名

本庄市中央に、密教の聖地として知られる普寛霊場があります。

220年前に、木曽御嶽山を開闢した普寛様は、商売の神様として知られ、普寛霊場の玉垣には、江戸の昔から公家や大名に始まり、町火消し、日本橋、築地、神田の市場関係者、そして吉原遊女に至るまで上下の別なく名前が刻まれています。*1

新吉原の楼名が刻まれています。

白山の待合の名も確認できます。

【参考文献】
*1 高橋福八:商工会議所だより(本庄商工会議所,2012.6.1)P.3 「普賢様と本庄市の活性化」

本庄(立小便看板)手作り感のある看板

銀座1丁目の美容室へ続く路地。犬の糞お断りの張り紙があります。

銀座二丁目の民家。こちらには、立小便禁止の張り紙が多数貼られています。

手作り感のある看板。

大きな鳥居。
隣には、「元気グングン! ジンセンアップ」のホーロー看板。 脱線トリオのメンバーであった故南利明さんの笑顔が印象的です。オリエンタルカレーのCMでの名古屋弁のフレーズ「ハヤシもあるでョ~」は有名でした。

本庄(理容室)逆さまの看板

本庄市中央一丁目の通り。

レトロな理容室があります。

木造の建物が印象的な理容室。

なぜか、看板が逆さまに取り付けられています。現在は、向かい側の店舗が営業中です。

本庄(遊廓跡地)本庄郵便局付近

今回は、本庄(埼玉県本庄市)の町並みと風俗を散歩します。
明治・大正時代、本庄は県北の養蚕地帯の中心都市でした。本庄では、蚕糸の海外輸出から糸ヘンに関するあらゆる業種と仲買、買継業者の数が多く、これらの商取引に付随して利用される料亭、貸座敷、芸妓置屋が多数存在したのもこの町の特徴でした。*1

現在の本庄郵便局があるあたりには、貸座敷の杉山楼、関口楼、山幸楼がありました。*1

山幸楼があったあたり(足利銀行近く)。

「埼玉県営業便覧」には、当時の繁華街の店列図(家並図)が記載されており、この店列図には、それぞれの商店の業種、屋号、店主名が銘記されています。山幸楼の店主は、橋本録郎と記されています。*1
「橋本」の名を配した鬼瓦。「山+文字」形式と思われる紋章の「Λ」の下に描かれているのは、「幸」の文字でしょうか。

【参考文献】
*1 田口浪三,高柳鶴太郎:埼玉県営業便覧(全国営業便覧発行所,1902)

指宿(村之湯温泉)古さを感じさせます。

村之湯温泉の歴史は古く、文久三年に創設されました(案内板より)。

浴槽は、縦に二つ並んでいます。

棚や鏡など、ありとあらゆるものがこの温泉の歴史の古さを感じさせます。

浴槽ニタオルヲツケヌ様イタシマセウ。
浴場ヲ綺麗ニ致シマセウ。

指宿(松元温泉の通り)駅前のスナック街

今回は、指宿(鹿児島県指宿市)の町並みと風俗を散歩します。
指宿駅の北側、、指宿枕崎線の線路の近くに銭湯の松元温泉がありますが、その奥に小規模なスナック街があります。

鮮やかな紫色のスナック店。

奥まったあたり(線路に近い側)には、スナックが密集しています。

昭和を思わせる風情のスナックが連なります。

鹿児島(霧島温泉)市街にあるレトロ銭湯

天文館近くの大通り(千石馬場通り)。

切妻の1階建ての霧島温泉があります。妻の部分には、木の湯号がはめこまれていて、屋根付きの湯気抜きなど、銭湯らしい落ち着いた雰囲気を残しています。*1

夜になると、切妻部分に燈が灯り、幻想的な雰囲気です。

創業は大正時代。昭和62年に内部を大改装し、現在に至っています。*1

【参考文献】
*1 鹿児島銭湯めぐり かごしま倶楽部第2巻(ハビタ,2000)P.40

鹿児島(立小便看板)天文館

新宿街の隣にある狭い路地。

入口に「この通りに小便をするな」と書かれた木製看板があります。

文化通りと二本松通りが交差するあたり。

「立小便するな」の大きな張り紙。

鹿児島(新宿街)天文館

歓楽街の「天文館」の通りに、思わず立ち止まってしまう、うらぶれた路地があります。

見上げると「新宿街」と書かれた看板が2つ。

奥行50mほどの袋小路の両側に飲み屋が軒を連ねています。*1

密集度の高い路地。

【参考文献】
*1 清水哲男;浜地克徳 絵:天文館物語(シーナ,2009)P.6-P.7

鹿児島(裏町通り共同ビル)トンネル路地

鹿児島の歓楽街「天文館」に古い雑居ビルがあります。

雑居ビルの裏側は、裏町通りと呼ばれています。東南アジアのどこかの通りを思わせるような光景です。*1

雑居ビルの1階を貫くトンネル路地。

別の路地の入口。「ひげ船長」と書かれた看板がいい感じです。

【参考文献】
*1 清水哲男;浜地克徳 絵:天文館物語(シーナ,2009)P.10-P.11

鹿児島(林芙美子文学碑)女流作家

今回は、鹿児島(鹿児島県鹿児島市)の町並みと風俗を散歩します。
鹿児島の象徴と言えば、噴煙あげる桜島です。桜島へは鹿児島港からフェリーで約15分です。

桜島の古里温泉に女流作家の林芙美子文学碑があります。

幼少時代のフミ子像。「幼少の頃、フミ子はここ桜島で過ごした」と刻まれています。
幼少時代の芙美子は、桜島の大噴火に遭遇しています。芙美子は、遅くとも大正3年10月には、鹿児島の叔母や祖母のもとに預けられていましたが、この桜島大噴火は、大正3年1月12日から約2年間も続きました。*1

大正の中ごろから昭和にかけてカフェーというものが大いに発達し、そこで働く女給が芸者に代わって都市インテリたちの新しい魅力の対象となりました。かつて女給をしたことのある女流作家は多く、一流どころでは、宇野千代、林芙美子、平林たい子、佐多稲子などがいます。*2

【参考文献】
*1 廣畑研二:甦る放浪記(論創社,2013)P.48
*2 大宅壮一:週刊読売(1958.2.25)P.26 「女流作家の愛情行路」

水俣(大園の塘)六ツ角交差点付近

水俣市街の旭町の繁華街を北上すると通称六ツ角と呼ばれる六差路の交差点にいきつきます。この場所には、昭和9年に河川改修の前までは(写真左奥の国道3号線方向から写真の後方にかけて)古賀川が流れていて、現在の六ツ角の場所には、永代橋が架かっていました。
永代橋は、江戸時代からの水俣の象徴的存在で、永代橋上流の左岸には、大園の塘(うぞんのとも)といわれた歓楽街がり、料亭や妓楼が建ち並んでいました。水俣では堤防のことを塘(とも)と呼びました。大園の塘、大廻り(うまわり)の塘、百閒の塘、古賀ん塘などです。永代橋から古賀観音堂付近までの道筋(写真の後方)を古賀ん塘と呼び、古賀ん塘に沿った辺には、料亭や芸者の検番などもあり、博聚園という少し洒落た2階建ての店がありました(現在のM’sCITY付近)。*1

大園の塘があった通りには、現在は、ビジネホテルや居酒屋が建ち並んでいます。
当時、大園の塘は永代橋を挟んだ古賀ん塘とは、対照的な賑わいをみせていました。すなわち、古賀ん塘が昼に活気を見せれば、大園の塘は夜に活気を見せるところでした。古賀ん塘は、鹿児島本線が開通するまでは、日本チッソ工場で生産されるカーバイドや肥料の積み出しが盛んでした。大園の塘はこれらの船員や地元商家の旦那方などで賑わいを見せました。

「聞書水俣民衆史 第三巻 村の崩壊」*2 の口絵写真に記載されている「もと女郎屋の建物を旅館に改造した旭屋旅館」は、ナイトクラブ「おあしす」の向かい側(ビジネスホテル「藤」の隣)にありました。*3

旅館「双葉荘」。

【参考文献】
*1 水俣市史編さん委員会:新水俣市史 民俗・人物編(水俣市,1997)P.1012-P.1018
*2 岡本達明,松崎次夫:聞書水俣民衆史 第3巻 村の崩壊 (草風館,1996)P.15
*3 ゼンリン:水俣市(ゼンリン,1984)P.65

水俣(そば屋の脇のスナック)トンネルのような路

水俣市浜町のそば屋の脇の小さな飲食街。

「ひかり」、「なぎさ」、「とも」などの店の看板が2階部分に並びます。

スナック「ひかり」の裏側の路地。

トンネルのようになっている路地を抜けると(写真左側)、スナック「洋子」がある通りに出ます。