上村敏彦: 東京花街・粋な街 (街と暮らし社,2008)

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西小山花柳界の全盛は昭和10年前後だった。料亭・待合が四十五軒、芸妓置屋が四十二軒、芸妓は芸者と半玉合わせて120人がいたという。太平洋戦争が始まると戦時体制が強化され、料亭・待合も営業停止となった。戦災でかなりの被害を受けた花街は、戦後の混乱が落ち着いた同25年に5軒の料亭から再出発した。新たに二業地組合を設立し、同31(1956)年には20軒まで増加したが、戦前の勢いは失われていた。

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以前は神田川沿いに紅灯が並び、三味線の音が聞こえていた風情も失われ、現在営業している料亭も「亀太川」だけになってしまった。
三業組合が信奉した悠池弁天社がカーサアルハムブラマンション(本町3-8ー5)脇にポツンと建っている。花街の範囲は本町三丁目の2~11番地までと本町5丁目の2~6番地で、本郷氷川神社手前までであった。
昭和四十七年発行の「接待手帳夜の街昼の街」(講談社)には、「昭和三年、地元の大地主が田んぼのど真ん中にデンと建てた亀太郎という料亭が、中野新橋そもそものはじまりである。その頃は、雨が降れば道路はヒザまでつかるという湿地で、芸者は新宿十二社から借りてきたという。」とある。この頃の料亭には「寿楽」「とんぼ」「曙」「春日井」「紀文」「一直」「安の井」「恵比寿家」「豊年」「千鳥」など四十三軒が営業していた。

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・旧見番があった場所にある2階建ての建物。
・待合の雰囲気が漂う建物。

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根岸の三業地が許可されたのは大正10(1922)年のことで、地元の矢野弦吉、伊木勝太郎ら数人が尽力し、2000坪の指定地開設にこぎつけた。周りは寺町で名所といえば御行の松くらいで、上野池之端や下谷の花街は上野のお山や不忍の池があったが、根岸は景色を眺めながら遊ぶ場所ではなかった。むしろ通人の隠れ家遊び場所として流行った花街であった。
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客筋は根岸、金杉、坂本など近隣の旦那衆が多く、人力車で遊びに来る者もいた。
往時の面影を残す「浜本」という料亭だったお宅。

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銀座の明治5年の大火は、金春付近にあった芸妓置屋も焼き尽くした。そこで、芸妓屋や芸妓は、一部を残して汐留川より南の烏森方面に引っ越した。煉瓦街が完成すると烏森から旧地に戻る者もあり、新橋は烏森の南地と汐留川北地の煉瓦地に、二つの花街が誕生したのである。
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烏森神社の写真
烏森神社と参道の飲食店(平成13年頃)。現在、左側は整備され、飲食店はない。

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戦時中には強制疎開で取り壊されたり、廃業した料亭・待合も多く、戦災で被害を受けなかったのはわずか六軒だけであった。築地の「新喜楽」「米田中」「雪村」と銀座七丁目の「蜂龍」「金田中」「田中家」で、疎開していた芸妓屋や芸妓もポツポツ東京に戻ってくるのは昭和21年のことだ。
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芥川賞や直木賞の選考会場としても有名な築地の料亭「新喜楽」。