鯖江むかしむかし編集委員会: *鯖江むかしむかし (惜陰小学校,2002)P.196-P.205

昔の人は、お酒の席を楽しくするために、上等なお酒に料理、そして歌や踊りでお客をもてましました。会議だけでは、打ち解けられないことも、料理屋のおいしいごちそうと、華やかな芸者のもてなしで心が和み、仲良く話し合いができました。 芸者雪奴は、雪子といい、十五歳の暮れ、雪奴という芸名をつけてもらって、お座敷へ出ることになりました。雪奴の一番華やかなで充実した時は、昭和40年(1965)に鯖江劇場で上演された、芸者総出の舞踊発表会でした。けれど、戦前からの芸者ばかりで、若い後継者が続かず、平成3年9月30日(1991)、ついに鯖江の芸者はいなくなりました。

P.119 弁天橋、市橋楼、弁天座、泉屋支店、開進楼、などの記載あり。

P.202-P.205 弁天湯 弁天通り(柳町から横越への道)の中程を北へ曲がると、弁天遊廓があり、そのつき当りに通称弁天湯、または田んぼの湯と呼ばれた銭湯がありました。先祖は、今立群福間村の出身だったので、正式には福間楼といい、大正期に木造三階建てを建築しました。当時は珍しいので評判の建物になりました。初めは、旅館をしていましたが、そこから450メートル程東の沼地からお湯が沸き出ているのを、旅館の持ち主が見つけました。そこで、直径50センチメートルぐらいの穴を掘って、湧き出たお湯を太い竹どいを7本束ねて弁天湯まで送りました。その当時のお湯はきれいな湯で、県で調べてもらったら、「含食塩炭酸鉄泉」という鉱泉でした。そのお湯を利用して一階を銭湯にしました。

P.200 昔から人の集まる所やにぎやかな所には、必ず遊女が集まって来たそうです。こうしてどこへでも現れる遊女は風紀上よくないから、一定の地域に制限するよう、幕府が制度を作りました。そこで鯖江の殿様は、弁天様に近い所へ遊廓を作りました。それ以来、町が賑やかに栄えたので、人々は弁天様を敬って、弁天通りとか、弁天橋、弁天川、弁天湯などと呼ぶようになりました。 遊廓内には、射的場やうどん屋、そば屋、一杯飲み屋などが並びました。