東京都江戸東京博物館: *東京150年記念 「看板建築展」 展示品説明文 (江戸東京たてもの園,2018)

海老原家は、茨木健取手の出身で、1887年(明治20)頃に上京し、古着屋を開業した。震災後、既製品の洋服を扱うようになり、さらにその後は背広などの服地であるラシャを扱うようになった。 ファザードをデザインしたのは、施主の知り合いであった画家の黒沢武之輔。前面をタイル張りとし、2階窓下に白漆喰による海老原商店の文字看板でアクセントを加えている。屋上のパラペットは銅板で作られ、帽子をかぶっているような印象を与えている。

被災者の多くは、焼け跡に自力で資材を集めて建てたバラックに暮らした。この様子を、「考現学」の創始者として知られる今和次郎(1888年~1973年)は、スケッチに残すとともに、「バラックを美しくする活動」を始めた。一方、大通り沿いの繁華街では、建築家のデザインによる意匠を凝らした仮説の商店が出現した。このようなバラックをめぐる様々な動きがのちの看板建築の誕生に大きな影響を与えた。 屋根には、「腰折れ屋根(マンサード屋根)」を用いることが多い。 看板建築の屋根には、腰折れ屋根(マンサード屋根)が用いられることが多い。これは、木造3階建てが禁止されていたため、3階に当たる部分に腰折れの屋根を造ることで、階数には数えられず「屋根裏」とすることができたことによるものという。実際、建築の審査を担っていた警察からマンサード屋根にするようアドバイスを受けた、という話が伝わっている。 また、当時よりマンサード屋根と呼ばれた屋根の多くが、2つの傾斜で構成される将棋の駒のような形の屋根で、正しくは、「ギャンブレル屋根」と呼ぶ。