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明治2(1869年)、新地が新設されてから料亭が立ち並び、「上の新地」「玉水新地」と呼ばれるようになった。新地北側の田んぼの中に光栄芝居という芝居小屋ができたのは、明治5年ごろらしい。松岡寅八経営の高栄楼は、この興行で弁当寿司を売り出して巨利を博し、陽暉楼建設の元手をつくったと伝えられる。陽暉楼は、11年8月15日の観月会で、谷干城(たてき)によって「得月楼」と命名された。