花垣有介: 月刊十勝ジャーナル 報道解説評論1973.7 (十勝ジャーナル社,1973.7)郷土史秘話(第一回)木賊原遊廓盛衰記

P.46
帯広の開拓当初は、天候にも著しい変化のある土地の労働は、開拓者にとって長続きはせず、ある意味、それら開拓者を足止めさせる魂胆から、現在の西六条、西七条の三十八号線以北に貸座敷の許可を下したのである。その第一号は明治31年の日の出楼で明治時代だけでも5軒を数えた。何故この場所に貸座敷の許可がおりたかは、非人情の商いだったたけに、なるべく遠方へと言うのが狙いであったように思われる。
郷土史の文献によれば、帯広の大通り以西は、直径五尺あまりの大木が林をなしていて、その根元には、木賊(とくさ)が群生し、昼なお暗い人間未踏の地であったと記してある。現在なお伏古別川の川下みは、木賊が生い茂っている。
P.47
大正中期から昭和初年頃にかけて、遊廓の数は急激に増えだした。新盛楼、開盛楼、一心楼、笹島楼、紀の川楼(のちに国鉄寮となる)、大正楼。全盛時の木賊原遊廓には、女郎の数もなんと60名も働いていた。
P.49
廓への通りだったいまの西7条本通り北四丁目付近。