須坂市誌第2巻地誌・民俗編2014
町のくらしとにぎわい
P.488 汲み井戸や共同水道しかなかったころは、バケツで水を運ぶ仕事は子供の仕事で、共同水道から家の風呂まで何度も往復して風呂に水を入れた。風呂を立てると、近所の人にも声を掛け、風呂に入れてあげた。もらい湯といって、隣近所で声を掛け合い、もらい湯に行ったり来たりした。濃密な近所付き合いのあった家族ぐるみの交流の場がもらい湯であった。各戸に水道が普及してからは、それぞれの家にも風呂ができるようになった。近隣の人々は「君が湯」という銭湯へいった。「君が湯」は平成になって、閉鎖され煙突も撤去された。 君が湯は、平成になって閉鎖され、煙突も撤去されました。 P.492 要町に昭和の戦時中まで共栄館という映画館があった。統制経済の中でフィルム7の供給がなくなったため、閉鎖直前はニュース映画だけが上映されていたという。戦後、共栄館の建物は板敷のダンスホールに生まれ変わり、昭和27年頃には営業をやめたようだ。不良の溜り場などと陰口をいわれたダンスホールだが、同時期には、電気館の向かいにも「フロリダ」といいう名前でコンクリート床のホールがあったという。 P.493 戦後の花街の全盛期は、昭和30年代だったという。そのころには、芸者の名入りの手ぬぐいやタオルが配られていた。戦時中に疎開してき富士通が電話器製造などで最盛期を迎えていたのもこの時期だったとされ、当時の街の賑わいは相当のものだったのだろうと想像される。 花街の歴史を通しての全盛期は昭和初期のころで、そのころには浮世路には、30人ほどの芸者衆がいたらしい。また、芸者のなり手を斡旋・紹介する桂庵(けいあん)や女衒(ぜげん)などと呼ばれた人が須坂や周辺に居住していたという。 P.495 青木新道にも飲み屋街が形成されていた。かつては青木新道からトテ馬車が出ていたという。ちなみに、須坂劇場の裏手橋本歯科医院の角あたりにトテ馬車の立て場(発着所)や馬小屋があったそうだ。なお、要町と青木新道は赤線・青線地域であったことも付記しておく。要町には34、5軒、青木新道には7、8軒の店が並んでいたとされる。これらの店は昭和32年(1957)の売春防止法の施工により廃止となった。 須坂駅前の要町には比較的小さい店が多かったという。昭和の中ごろは、若者たちは要町で飲むことが多かったそうだ。駅前は昭和40年代まではhジ通に通勤する人々でにぎわっていたが、昭和50年ごろからバスで富士通の工場まで送迎されるようになってからはにぎわいも減っていったという。

この文献を参照している記事

須坂(青木新道)赤線・青線があった地域
須坂(君が湯)平成になって閉鎖。
須坂(劇場通り)須坂劇場があった通り
須坂(かなめ町通り)かつての赤線街