椎野善助 茂原市東南部発達史 長生新聞社 1969.1

特殊営業

早野新田海軍慰安所設置

P.287 大東亜戦争末期昭和17年、軍部は茂原海軍航空基地「飛行場」設置を必要とし、敷地として統合地区町保「中山町裏」山林原野と同地区木崎及び谷本の一部を買収し、約1ヵ年余にて特攻隊基地が完成されたのである。 軍は之に伴い慰安所設置を必要とし、時の町長鈴木才次氏塔の有志に其協力を需め、慰安所敷地は県会議員佐川四郎氏、松本現市長(当時警防園長)等が奔走し、早野新田北部鉄道線路山林吉野正明氏所有の地を買収し、業者は軍の協力を得て、18年11月より突貫工事が行われ、翌19年3月完成された。慰安所開店には東郷地区木崎出身東京洲崎楼主長谷川良平の斡旋で洲崎から6軒、船橋より1軒の業者が来り、営業を開始して軍の要請に応じた。 終戦後は一時進駐軍の慰安所となり、約6ヶ月後に一般に営業され、故に付近には飲食店、パチンコ屋等も出来て、一時付近は盛り場の観を呈するに至った。

茂原グリーンセンター・鈴木音三郎氏談

P.288 昭和18年より土地の整備、翌19年2月中に軍の協力により、突貫昼夜兼行工事にて進行し、3月15日斎藤部隊出発に間に合わす様に努力の結果、一応斎藤部隊の壮行会が盛大に行われ、引き続き同業6軒とも共竣工し、早野新田海軍慰安所が出来上がった。其間地元の農家諸氏からなみなみならないご援助を受け、当時思い出の白い米のご飯も度々届けて頂いた事も思い出の一つです。其後、戦は刻々悪化し、ご承知の如く茂原航空隊は特攻基地故に、終戦間際は毎日の如く、台湾沖へ若鷲が出発し、明日の出発時は必ず挨拶酒宴と同時を思い出すと涙が出ます。 20年いよいよ終戦となりました。進駐軍が茂原に進駐してくる故に、若い婦女は茂原を立ち退かねば、と非常なるさわぎでした。私は立川航空隊進駐軍慰安所の経験もあり、お引き受け申し組合員も共に同意をいたし、協力しましたが、進駐軍も割合早く引き上げ「約6ヶ月」。婦女子の防波堤として御務め致した心等であります。 昭和22年1月27日の内務省の指示により、特殊飲食店は即時廃止す可しとの御達しあり、28日茂原新地転業対策協議会なるものを造り、女中は全員故郷に送り返す様に仕末をしました。

茂原グリンセンター設立

P.290 茂原グリンセンターは、大東亜戦争周旋期、海軍慰安所が出来、終戦後売春防止法令により廃止となり、業者に転業に当たり、梅の屋主人鈴木音三郎氏を宇を率先して大衆娯楽場のグリンセンター経営を計画し、茂原有志の後援を得て昭和33年開設したのである。