小野寺佑紀利根川河口域における海難者供養の習俗千葉県銚子市・茨城県神栖市波崎町の立正佼成会の事例から神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター リンク

銚子の海難史

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利根川河口付近には暗礁や暗洲が非常に多く、「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖の渡合が恐ろしや」といわれ、日本三大海難所の一つとして恐れられていたという。また、「銚子の川口でんでんしのぎ」といって、河口を航行する際は、自分の船を操るのが精一杯で、他の船に構う余裕すらないという意味の俚言が伝わる。
近代の海難事故として、明治 43(1910)年3月 12 日(旧暦2月2日)に発生した「二月遭難」が、今も哀話として語られている。その日は穏やかな日和であったが、鹿島灘沿岸を襲った暴風雪によって、銚子だけでも 109 隻の漁船が遭難し、死者 912 名・行方不明者 1,054 名を数える未曽有の海難が発生した。

水子供養としての水難供養

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外川では「水難供養」の際、平成 23(2011)年 11 月に建立された「水子諸々霊位」とある供養塔の前に、幼児向けの菓子や飲料などが供えられていた。外川では「葡萄(葡萄子とは、胞状奇胎という妊娠異常)の夢を見ると水子、またはブドウゴ」といった俗信があり、この夢が水子供養と結びついた要因の一つとなっている。また、外川には昔遊郭があり、身重になった遊女が腰まで海に浸かり、腹部を冷やして堕胎させたという話も伝わっている。明治 43(1910)年の「二月遭難」の際には、浦々の漁師がほぼ全滅したため、零細漁民は娘を身売りしたという哀話が伝わっている。

銚子には、江戸後期から大正初めまで松岸遊郭や本城遊郭といった花街があり、戦後も田中という赤線地帯があった。銚子市の円福寺(真言宗)の墓地には、大正13(1924)年に建立された「本銚子町料理店組合酌婦之墓」があり、夭折した10代から30代の女性38名の名前が刻まれている。利根川や犬吠埼ではさまざまな境遇から、身投げした遊女が浜に流れ寄ったといった話も伝わる。このような海や浜辺に依拠したさまざまな要因から遊女や妊産婦、水子についても水難供養の対象とされていることがうかがえる。

波崎南支部の事例

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「水難供養」は毎月26 日前後に波崎漁港近くの洲鼻地区に位置する「海難漁船員慰霊の塔」(昭和60 年建立)の前で行われている。戒名用紙には、供養の願い入れがあった昭和50(1975)年10月から平成302018)年3月(調査時)までの水難者の戒名が記されており、銚子教会時代から引き継がれて供養されている。その中には、「□生院□□□徳二十名信士 □□丸の水死二十名」、「□生院□□□徳信士□□□で釣りをしていて波にさらわれ死んだ男」、「□生院□□□徳信女□□地区にまつわる遊女数十名」といった戒名が散見できた。
海難慰霊塔が建っている一角は、波崎漁港整備や宅地造成に伴って埋め立てられるまで周りは全て砂浜で、樽で3杯も4杯もハマグリが採れるような浜辺だったという。慰霊塔の周辺には判読できるもので、元禄8(1695)年から昭和 55(1980)年建立まで8基ほどの供養塔があり、昭和 61(1986)年に建立された大亀大明神(カメノコサマ)の祠が隣接している。昔から利根川河口に位置する洲鼻には、さまざまなものが寄り集まる場所であったことがうかがえる。

この文献を参照している記事

波崎(海難漁船員慰霊の塔)波崎漁港近くの洲鼻地区。
波崎(銚子大橋)かつては、日本三大海難所の一つ。
銚子(寄附碑)本銚子町料理店組合寄附連名。淨國寺。