銚子市銚子市史昭和31年刊の複製銚子市1981.5
銚子の花街

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銚子花街の濫觴は飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や茶店にあると推察される。この順礼者のために発達した門前町の茶店・旅籠屋等に、いつとなく出来上がった私娼窟が今の田中特飲街(赤線区域)の前身であった。

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利根川の水運が開け、江戸と緊密に結びつくようになると、本城・松岸が発展繁昌し、今までなかった立派な妓楼が建つようになった。

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本城遊廓があった地は字下町と呼ばれる地で、天保・弘化・嘉永と都市を追って繁昌し、5軒の遊女屋に25軒の引手茶屋が軒並べていた。本城遊廓の衰運の最大原因は、天保11年、嘉永2年、文久3年と三たび火災に火災に罹ったことにある。維新後、法律改正による貸座敷営業となったが、振るわなくなり、転業の困難から延期に延期を重ね、大正元年、漸く全廃の運びに至った。

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本城と並び称された松岸遊廓は、その開創は本城よりやや古いかに思われる。此方の方は明治・大正に及んでもなお全国に知られ、昭和まで存続した。太平洋戦争の勃発と同時に廃業し、開新楼、大阪屋等の高楼は軍工場の工員寮に徴用された。

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銚子(寄附碑)本銚子町料理店組合寄附連名。淨國寺。