銚子市銚子市史昭和31年刊の複製銚子市1981.5
外国商船の銚子浦難破

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怒涛さかまき暗礁乱立する銚子近海は、今もって難破するものが絶えない。これら難破船の中には、少なからず外国船も入っていることと推定されるが、記録に遺るものは僅かである。

円福寺本殿の前庭一隅に「竜王殿」と呼ぶ小堂に安置されている大きな外国婦人の立像は、外国船から脱落し、漂着して拾い上げられたものと見られる。江戸時代のオランダ船の舳(へさき)に取り付けられていた船首像(マスコット、オランダ船には、船首像として自国の偉人や女神を舳に飾る慣習があった)と推定される。

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観音堂裏の花街、田中町一帯に住む娘子軍の信仰を一手にあつめている。祈れば、下の病を治してくれるとか、願うことを叶えるとかいって、暮夜ひそかに詣でるもの後を絶たない。

港の沿革の現状

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宝永元年、大阪の豪商仲内家はこの地に来て大阪屋を号し、3つに分家して、米穀商、薪炭商、酒食店を開いたと伝えているが、その中で飲食を業とした方は大藤屋利兵衛を称して多いに繁盛した。親船の船夫たちは上陸すれば直ちに大藤屋に行き、飲食するのはもちろん衣類の洗濯まで依頼したため、常に4・ 5人の雇女を置いて、なお不足がちであったという。次いで東海道三島宿から三島屋三平が移り住み、また江戸近在から川口屋太平が転じ来たって、各々商売を始めたが、のちにこれらが大藤屋と共議して字下町に遊女屋を営業するようになった。天保・弘化・嘉永と年を重ねるにしたがって繁盛し、ついに遊女や5軒、引手茶屋25軒という盛況となった。

明治初年の松岸遊廓

松岸遊廓の廃亡と田中

松岸・本城の両遊廓が廃絶した今日、銚子には遊廓と名づくべきものはない。あるのは飯沼観音裏手から和田町へかけての一帯、商家と民家に混在する特殊飲食店・接客婦の名をもって構成する俗称「田中」の赤線区域だけである。円福寺墓地に「本銚子町料理店組合(田中の旧称)が大正13年に建立した「酌婦の墓」がある。墓碑に刻してある店名は62を数える。

十返舎一九と銚子

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十返舎一九が銚子地方の紀行をまとめた「南総紀行旅眼石」は東下総を巡遊して各地に狂歌ファンを訪ねている。この時、彼は江戸を出て、香取神宮に詣で、利根川を下り、松岸、銚子に来て磯巡りをし、さらに鹿島神宮から水戸つくば日光を経て帰っている。今は滅びてしまった松岸や本庄遊廓の記などは江戸時代の面影をしのぶべき唯一のよすがとなった。

あかつきのきぬぎぬよりも名残をし君にわかれをつぐる鶴
遊女 きよ鶴

今ははや名残の春となりにけり花のあげくにかへるうた人
三五夜中

文中の三五夜中とあるのは、十五屋丸という大船をもっていた廻船業者で、今の十五屋旅館の祖にあたる。これらが主となって、銚子の豪商連の間に狂歌趣味を鼓吹していたもののようである。
幾人かの遊女が名をつらねているのが目を惹く。遊芸や文雅の道にいそしむことを誇りとしたこの時代の遊女のたしなみは、ここ松岸の遊里にも育成されていたのである。

銚子の花街

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銚子花街の濫觴は飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や茶店にあると推察される。この順礼者のために発達した門前町の茶店・旅籠屋等に、いつとなく出来上がった私娼窟が今の田中特飲街(赤線区域)の前身であった。

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利根川の水運が開け、江戸と緊密に結びつくようになると、本城・松岸が発展繁昌し、今までなかった立派な妓楼が建つようになった。

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本城遊廓があった地は字下町と呼ばれる地で、天保・弘化・嘉永と都市を追って繁昌し、5軒の遊女屋に25軒の引手茶屋が軒並べていた。本城遊廓の衰運の最大原因は、天保11年、嘉永2年、文久3年と三たび火災に火災に罹ったことにある。維新後、法律改正による貸座敷営業となったが、振るわなくなり、転業の困難から延期に延期を重ね、大正元年、漸く全廃の運びに至った。

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本城と並び称された松岸遊廓は、その開創は本城よりやや古いかに思われる。此方の方は明治・大正に及んでもなお全国に知られ、昭和まで存続した。太平洋戦争の勃発と同時に廃業し、開新楼、大阪屋等の高楼は軍工場の工員寮に徴用された。