小峰隆次五浦時代の岡倉天心を支えた人々と北茨城市平潟町の今昔蒼海出版
八幡神社

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社殿は、天保6年(1835)に、焼失してしまったが、現社殿は、嘉永6年(1853)に再建された。この八幡再建では、庄屋の鈴木主水と菊池半兵衛が中心で、武子家、菊池家、鈴木家、根本家、赤津家、小松家、高橋家、後藤家、小峰家等の寄付あり、洗濯屋仲間120両、仲宿中100両の寄付もあり。

平潟の遊女屋は洗濯屋と呼ばれた。凶作にあえぐ天明年間(1781~1788)、山崎屋武次右衛門他4人の者が、諸廻船のまかないを洗濯下女に行わせ、その間に運送の手はずを整えれば、廻船の入港も多くなり洗濯下女興しになる、との理由で、洗濯下女の召抱えを願い出て、渡世の許可を得た。これが平潟の洗濯屋の始まりである。その後、文政12年(1830)には、洗濯屋の数は8軒に増え、これに不可分に結びつく仲宿43軒が仲間を結成、隆盛を極めた。(鈴木禎著、平潟あたりの歴史探訪---江戸時代・明治時代より)

小宮山楓軒は、文政10年(1827)奥州への旅の途中、平潟を目の当たりにし、「繁栄している土地だ。狭い所だけれど200余りの家がある。遊女屋も7軒ある。金持ちの商人が多く、瓦屋根の家々がまるで魚の鱗のようにつながっており、まるっきり都会のようだ。小さな港だけれども入舟が絶えないから、このように賑わっているのだろう。」とその繁栄ぶりを書きとめている。