西海賢二筑波山と山岳信仰講集団の成立と展開崙書房出版2012.11
筑波山神社と筑波山信仰について

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筑波山信仰は鎌倉期において形成され、徳川幕府の筑波山神社に対する信仰も武蔵三峰山(埼玉県秩父市)、武州御嶽山(東京都青梅市)、相模大山(神奈川県伊勢原市)等とともにきわめて厚く、三代将軍家光は、日光東照宮とともに、知足院を幕府の大鎮守とし、その後、幕末維新まで続き、明治6年に県社となった。

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北条から神郡にぬける三叉路には、北条の町が参拝者によって活況を呈した様子を偲ばせる3メートルにも及ぶ大型の角柱型道標(台座部分は八角柱)が造立されている。
台座部分には 
再建願主 野沢惣兵衛
同 山口武右衛門
同 武井仁右衛門
とみえ、再建願主のメンバーは、いずれも北条における有力商人であったことが知られる。

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筑波山信仰が、他の山岳信仰である三峰講や武州御嶽講に比べて、根強い信仰を普及伝播させなかった原因は、(信仰を広める)御師(おし)活動が活発でなかったために、普遍的な小集団を族生(そうせい)させるに至らなかったためだと思われる。その代償となったかは定かではないが、一般参詣者相手の旅籠屋、遊女屋がかなりあった事が知られている。
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くわえて、他の山岳信仰がその山岳登拝(とうはい)という苦行性に信仰の本質を求めたのに対して、筑波山は容易に登拝することができ、苦行(修行)というより、物見遊山に化してしまったからではないだろうか。

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明治初期の筑波町のようす
(「のびゆく筑波」筑波町教育研究会社会科研究部編より)

この文献を参照している記事

筑波(一の鳥居)つくば道。明治初期は、道の両側に土産物屋。
筑波(つくば道道標)これよりつくは道。台座部分は八角柱の形状。