佐竹商店街の東側(小島一丁目)の清洲橋通り。

三軒長屋の商店。色は3色です。

2階部分。

後方に、3階建て部分が見えます。

けんちく
佐竹商店街の東側(小島一丁目)の清洲橋通り。
三軒長屋の商店。色は3色です。
2階部分。
後方に、3階建て部分が見えます。
佐竹商店街から西へ入った路地。
看板建築の建物が残っています。
銅板建築。
隣のトタン建築の物干し台。
伊勢佐木通りの隣にある親不孝通りは、現在は風俗街となっていますが、その中に古いアパートが残っています。
玄関部分は、黄緑色のタイルで装飾されています。
建物側面のタイル。
黄緑色とピンク。
曙町4丁目の四つ角の古い住宅。
建物の角に目的不明のタイルの柱があります。昔、お風呂場などでよく使われていた丸玉石モザイクのタイプです。
ほぼ正方形の四角柱。
かなりの年数が経過していると思われますが、タイルの輝きは失われていません。
元町中華街の市場通りの北側。
中華街でよく見かける甘栗の店があります。
その隣にあるみやげもの店。
鮮やかなトタン建築です。
建物の後方から。
下館の高台の商店街。
見事な看板建築の「中澤時計店」の建物があります。
パラペット部分には、時計が埋め込まれています。
中央部分には、中澤時計店の看板。
背面から。
遊廓跡と思われる木造3階建物※1 の隣にある2階建ての木造家屋。
こちらも奥行のある建物です。
町屋風の建物。
2階部分。
華やいだ雰囲気です。
1963年開業の三愛ドリームセンターは、現在も銀座のランドマークとして君臨しています。
2階の喫茶店の窓際席からは、銀座の景色を楽しめます。
3階のビルからは下着姿の女性が交差点を見下ろしています。
2階の喫茶店からの眺める銀座の風景。
大勝軒※1 の向かい側。同じく戦前の建物の「鳥萬」があります。
食料品の店舗だったようです。
鳥萬の文字。
4階建てのように見える3階建て。
北千住駅前の商店街に残る牛乳店の建物。
エンゼルマーク。
古い建物で見かける木製の切文字。
「配給」の右側が欠けていますが、おそらく「配給所」と書かれていたのだと思います。
「牛乳配給事業」は、大正末期から昭和初期にかけて東京市で実施され、牛乳を無償で配給することが特徴でした。*1
北千住の駅前商店街※1 に、ひときわ目立つ三階建ての木造家屋。
1階には、多数の張り紙。
3階部分は見晴台のような高い場所にあります。
奇抜なデザインのバーの建物が隣接しています。
千住大川町は、荒川近くの細い路地が残る住宅地です。
トタンの建物。
トタン壁に貼られたトタンの張り紙。
「痴漢に注意」のトタン看板。
品川には、看板建築の建物がわずかに残っています。
こちらの建物は、1階が飲食店としてリニューアルされています。
旧東海道沿いの金物店。
2階の上下に銅板の装飾。中央部分は茶色のタイル。斬新なデザインです。
今回は、入谷~吉原(東京都台東区)の町並みを散歩します。
入谷一丁目にある太田ハム。地元の有名企業です。
看板には、「HAMBACON&SAUSAGE」と書かれています。
太田ハムの看板。
隣には、肉の石川。
根岸柳通りにある商業ビル。1階が店舗で2階が居住部分です。中央には、「婦人倶楽部」の看板のある商店。「婦人倶楽部」戦前・戦後を通じて発刊された婦人雑誌です。
女のよろこび・・・・・妻のしあわせ
建物の紋章。スッポンのように見えます。
建物の裏側、表側は、複数の店舗が一体感のある商業ビルに見えますが、裏側の構造は複雑です。
神田小川町2丁目のビル街。写真右手前は、以前のビルが取り壊され、建て替え予定となっている更地です。
更地の隣の3階建てのビル。正面から見ると2階建てのように見える点は、看板建築の特徴を有しています。
更地の方向から見た建物の側面。
少しだけ3階部分が垣間見えます。
神田多町周辺は、神田川と日本橋川まれ、この2つの川の水運により食料も集まりやすうい立地から「やっちゃば」と呼ばれる青物市場ができきました。「越後屋」は創業明治末。市場で買った荷物を揃え、配送する権利を持っていました。*1
正面部分のみ銅板が貼られています。
建物の奥を見ると、3階建てであることがわかります。
逆方向から。
日本橋小網町の首都高速江戸橋ジャンクション近く。閑静なビル街の中に佇む芸術的な看板建築。
桃乳舎。
上部には、桃のマーク。
カレーライスを注文。
喜寿司の隣の歯科医院の建物※1。傍らにコンクリゴミ箱が設置されています。(写真右下)
備え付けタイプです。
左側は、ゴミ箱スペース。上蓋が付いています。
右側のボックスは、上部からゴミが落ちてくる仕組みです。
築地市場の東側。築地6丁目、7丁目付近には、看板建築が多く残っています。
こちらの商店だったと思われる建物は、正面から見ると2階建てです。
背面から見ると、屋根裏部屋部分*1 は、3階建て部分であることがわかります。
こちらも正面は2階建て、横から見ると3階建てです。
三角屋根部分が3階部分になっている食品会社の建物。
今回は、神田明神下(東京都千代田区)の町並みを散歩します。
JR御茶ノ水駅の東側。神田川に架かる聖橋からみたJR総武線、JR中央線、地下鉄丸の内線が立体交差します。ずっと眺めていても飽きない景観です。
昌平橋から聖橋方面の遠望。
川沿いに4階建ての建物が建ちならんでいます(JR御茶ノ水駅より)。
ビリヤードの建物。
万世橋近くにあるラジオガァデン。その名の通り、電機部品の店舗です。かつての秋葉原の電気屋街を思わせる風景です。
ラジオガァデンの中になる飲食コーナー。肉の万世の直営店です。
生ビールを注文。写真左側のかつサンドは、見本品です。
店内には、肉の万世の開業当時の写真は、当時の秋葉原の写真が展示されています。
関東大震災以後の商業建築の多くは2階建てで、3階部分に屋根裏部屋を持つものが多く、これは木造3階建ての禁令をクリアするための抜け穴的構造でした。*1
神田須田町では、看板建築のような奇抜なデザインの商業建築以外にも、この「一見2階建て、実は3階建て」の建物を見かけます。
写真の建物は正面から見ると2階建てですが、横から見ると3階建てであることが解ります。
こちらも、一見何の変哲もない2階建て。
横から見ると3階建てです。
今回は、神田須田町(かんだすだちょう、東京都千代田区)の町並みを散歩します。
秋葉原の万世橋を渡り、すぐに左へ曲がり、山の手線のガードをくぐると。柳森神社の前(柳原通り)に出ます。今は神田須田町二丁目ですが、このあたりは、元柳原町と呼ばれていました。柳原は、明治には古着市場であり、その後、既製服問屋街になりました。柳原通りは昭和初期にはかなりにぎやかだったそうです。この一画には、昔からの看板建築の商店が残っています。この付近は戦災の時に焼けないで残りました。*1
写真は、岡昌(おかしょう)裏地ボタン店(昭和3年築)。*2昭和通りに出る少し手前の右手に残るしゃれたファザードの一軒は、海老原商店という服地店です。*1*3*4
海老原商店は昭和初期(1927)につくられました。*1*3
2階窓下には、白漆喰による海老原商店の文字看板*3
上部には、ネオ・クラシックやアール・デコがミックスされたような装飾が上部についています。*1
江戸東京たてもの園には、展示室があって、「看板建築展」開催中です。
看板建築は、関東大震災後、人々は、自力でバラックを建て始めましたが、このとき、バラック美しくする活動(今和次郎など)や建築家のデザインにりょう仮設商店などが建ち始め、これが後の看板建築につながったそうです。*1
本来、2階建てであるべきところ、少しでも広く使うために屋根裏部屋を設けた事例の模型が展示されています。*1
こちらは、ほぼ完全に3階建ての建物。
中央区月島の旧玩具店の建物に飾られていた、だるまの部分が移設、展示されています。
今回は、藤岡(群馬県藤岡市)の町並みと風俗を散歩します。
JR高崎駅から、八高線に乗って、3駅(約15分)で群馬藤岡駅に着きます。駅の南西方向が中心街で、仲町の通りには、割烹料理屋が建ち並ぶ一画があります。
割烹「花月」。
向かい側にも料理屋らしき建物が建ち並んでいます。
逆方向から見たところ。
蒲田駅東口の繁華街の交差点の角にある建物。
建物の側面には大衆割烹「川和路」。かつては料理屋だったようです。
建物の右側半分は、アパートのような造り。
昔、お風呂場で見かけたようなタイルです。
地下鉄南北線の麻布十番駅の東側に、古川が流れています。
古川の東側は、古くからの住宅街で、風情のある木造母家が建ち並んでいます。(写真奥に見えるのは、首都高速道路です。)
川沿いからさらに東側へ入ると、昭和の暮らしぶりを感じる住宅街が残っています。
袋小路になっている場所からは、銭湯の小山湯の煙突が見えます。
花岡遊廓の中心部だったと思われるあたり。
旅館の「かみなか」があります。遊廓時代の面影を感じさせる建築です。
旅館の「かみなか」の建物は、明治中期の建物で、国の登録有形文化財に登録されています。館内いたるところに創建当時の面影が残されており、現在高山市に残っている建築様式としては一のものです。*1
旅館裏の路地には、遊廓時代を偲ばせる空間が残っています。
【参考URL】
*1 旅館の「かみなか」:ホームページ
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
5月22日に東京スカイツリーが開業し、浅草からの展望は大きく変わりました。
しかし、浅草のシンボルと言えば、この通称うんこビルです。
うんこの先っぽ。
上から見たうんこ。
浅草の六区ブロードウエイ商店街。
現在のウィンズ浅草のあるあたりから西側は、昭和の初期までは、浅草公園があった場所で、ひょうたん池と呼ばれる大きな池があり、ブロードウエイ商店街のつきあたり(現在、パチンコ店がある場所)には、明治・大正時代、凌雲閣(りょううんかく)がありました。
最近になって、パチンコ店の前に凌雲閣の銅版の碑が設置されました。
東京タワー、東京スカイツリーと並んで、東京三大ツリーと呼ばれているそうです。
凌雲閣、またの名を(十二階建てだったので)「浅草十二階」は、高さ52mの高塔で、東京タワー(333m)のわずか6分の1以下の高さですが、明治一の高塔で、東京のランドマークでした。現在のタワーから比較すれば、低い塔である凌雲閣からの眺めは近景を見たときに人の形がはっきり分かる程度で、つまり、その展望台は、「人をみるという感覚」「人に見られるという感覚」を感じることのできる「適切な低さ」を持っていました。石川啄木の明治41年8月21日の日記には、浅草十二階から望遠鏡で下を見下ろしたとき、細い小路で男が淫売婦に捉るところが見える」という話が書かれています。1
「路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、”チョイト” ”様子の良い方” ”チョイト、チョイト、学生さん” ”寄ってらっしゃいな”」
当時、東京の私娼窟の中心は、浅草十二階下界隈でした。私娼4,000人(吉原の登録娼妓数2,409名の約1.7倍)、銘酒屋、新聞縦覧所(取締の目を逃れるため密淫売業者が編み出した業態カムフラージュの一つ)、小料理店の名目で、私娼を抱える店は700店に及んでいました。2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.8-P.11,P.236
*2 竹村民郎:廃娼運動(中央公論社,1982)P.63
道玄坂の中ほどに看板建築の商店の建物が残っています。
数棟ある建物には外壁崩落防止のネットがかけられています。
屋根裏に部屋をとって三階として利用できるようにしたマンサード屋根の構造をもつ建物もあります。マンサード屋根とは、下部の急勾配と上部の緩い勾配が組み合わさってひとつになった屋根で、「腰折屋根」ともいいます。フランスの建築家、F.マンサールの考案といわれています。*1
商店は営業していません。取り壊しの準備が始まっているようです。
【参考文献】
*1 初田亨:繁華街の近代(東京大学出版会,2004)P.236,P.272
JRのガード下を有楽町から新橋駅へ向かう途中に、「新橋近道」と書かれた入口があります。
暗い地下道のようなガード下の通路が延々と続きます。
所々に、このような階段があります。
階段を登ると、2階にも同じような通路が続いています。
日本橋本町四丁目は、かつての町並みや雰囲気が残るエリアです。
中でも「理髪久保田」は、昭和5年築の看板建築です。
モダンなデザインです。
現在も営業中です。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
地下鉄八丁堀駅近く。ビル街の中に戦前の看板建築がひっそりと残る一画があります。写真の一番右側の建物は、旧神田美容院の建物です。*1
路地の入口。
銅板建築の建物。
都会のど真ん中にして、この石畳の路地。自販機の安室奈美恵さんのポスターとのアンバランスが何ともいえません。国旗掲揚塔があります。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
神保町交差点から白山通りを南下したあたり。近くには首都高速都心環状線が通っています。
ここに、ひときわ目立つ円柱状のオブジェを持つ不二ラテックス株式会社(コンドームメーカー)の本社ビルがあります。
不二ラテックス創立者の岡本忠大さんは、精巧なヌード姿の蝋人形を作るのが趣味で、由美かおる、マリリンモンロー、岡田菜莉子、八代亜紀などがあって、性器やヘアまでそっくり(?)にできていました。岡本さんは、興に乗るとこれらの人形を並べて酒を飲んだ粋人でしたが、1983年4月、肝臓ガンで亡くなりました。*1
『胴部三段緊縮絞り』のコンドームを模した巨大ネオン塔。企業の宣伝という立派な大義名分を果たしてはいるのですが、そんな有用性を突き抜けて製作者のやみくもな思い入れがムキ出しに現れているところが、痛く感動的です。*2
【参考文献】
*1 セルフ出版:元気マガジン(1983.8)P.16 「不二ラテックスの故岡本忠大社長に哀悼の意」
*2 赤瀬川原平:路上観察学入門(筑摩書房,1993)P.266
鶴見駅から鶴見線で一駅目の国道駅は、鉄道ファンに人気のある駅です。カーブを描いている鶴見線の高架下に駅の改札口があります。
トンネルのような独特の形状をしています。
改札口は、木製です。
ガード下は、ここだけが昭和のまま時間が止まった様な雰囲気です。
五反田の駅のガード下は、立ち飲みやが多く、サラリーマンたちの憩いの場となっているようです。中でも、池上線のガード下は、絵になる風景がひろがっています。
路地の入口の角の立ち飲み屋さん。
路地には、居酒屋などが建ち並びます。
逆方向から見たところ、向こう側にソープランドの看板が見えます。
中華料理屋「一番」の隣に、古い家があります。*1
回転式の窓がたくさんあります。
まるで絵画を見ているようです。
何に使われていたのでしょうか。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)p.129
今回は、皆ヶ作(神奈川県)の町並みと風俗を散歩します。
京急田浦駅前近くにある仲通り商店街の入口の左手に黄緑色の個性的な建物があります。*1
2階の部分。
側面から見たところ。
繊細なデザインの窓。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.76-P.77
野毛の飲食街。
飲み屋街が密集する一画です。
2軒ならんだ店舗。黒い柱が3本レイアウトされています。
柱は黒いタイルで装飾されています。
今回は、渋谷(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
京王井の頭線神泉駅は、渋谷の隣の駅で、各駅停車のみがとまる駅です。
江戸期の記録によると、このあたりは神泉谷と呼ばれていました。*1
その名の通り、道玄坂上からくだった谷のような地形になっていて、神泉駅は、トンネルから出たところにあります。
神泉には、弘法湯という名前の湯があり、しだいに、湯のかたわらに休憩所や旅館ができ、芸妓も入るようになりました。明治20年頃から芸妓屋が近辺に開業し、花街となりました。*1
この花街は、後に円山花街となりました。*2
歌手の三善英史さんの「円山・花町・母の町」のヒットにより、円山町が花街であったことは広く知られるようになりました。三善英史さんの実母は芸者さんで、つまり、「円山・花町・母の町」は自叙伝的な曲で、三善英史さんにしか歌えない心にしみいる名曲でした。*3
日本中を驚かせた東電OL殺人事件の現場となった喜寿荘は、神泉駅のすぐ近くにあります。
【参考文献】
*1 竹内誠:東京の知名由来辞典(2006,東京堂出版)P.203-P.204
*2 渋谷区史
*3 鈴木健司:渋谷の考現学(2007,NHK出版)P.49-P.52
入谷を散歩した後は、吉原方面へ向かいます。国際通りを越え、鷲神社の裏手の通りに入りました。
T字路に、「散歩の達人」の特集「街に赤線があった頃」*1 に掲載された扇型の窓を持つお宅があります。雑誌掲載当時は、1階が「三好」という中華食堂でしたが、今は普通の住宅です。
「面白い造りの店だと言われて、映画の撮影に使われたこともあった。」そうです。*1
特徴のある扇型の窓は今でもの健在です。
【参考文献】
*1 大竹誠:散歩の達人(1996.11)P.21
小田原駅前の東通り商店街近くに大乗寺がありますが、このお寺へ向かう道が分岐する三角地帯に狭小建物があります。建物の前には自販機が置いてあります。
この角度から見ると、かなり薄型の建物に見えます。
自販機と建物は、以外にもこのぐらい離れています。
建物の先端部分は、入口と階段になっています。
今回は、安浦(神奈川県横須賀市)の町並みと風俗を散歩します。
京急県立大学駅(旧安浦駅)前に、佐野医院の建物があります。
アール・デコ調のデザインの立派な建物です。
文化的価値がありそうな近代建築です。
円形のステンドグラス。
京浜急行線日ノ出駅。
野毛山のトンネルを抜け、電車が駅に入ってきます。
ここの駅の柱は豆タイルで三浦半島の絵が描かれており、レトロな雰囲気です。
他の駅ではこのような豆タイルの装飾はありませんが、日ノ出駅だけに見られます。
凌雲閣(またの名を浅草十二階)は、明治一の高塔であり、東京のランドマークでした。設立当初は、その名を「凌雲閣」と称していましたが、明治45年を境に、「十二階」の通称に変更になりました。*1
十二階の内部デザインには第三回内国勧業博覧会(明治23年の4月から7月)のレトリックが大幅に取り入れられました。*2
凌雲閣が画期的だったのは、エッフェル塔と同じく、電動式昇降機械(エレベーター)が設置されたことでした。*3