桜の名所として広く知られ幸手のシンボルとなっている権現堂堤ですが、現在の堤は明治の洪水とのたたかいから生まれたものでした。*1
かつての権現堂川は、いったん洪水で決壊しようものなら、すぐさま首都・東京に洪水をもたらすおそれがあったため、明治政府は、ここに新たに堅固な堤防を築きました。しかし、重なる洪水に悩まされた政府は、権現堂川を廃川とすることにしました。この計画を知った地元の人々は、堤に桜の樹を植え始め、その桜は順調に成長し、権現堂堤は生まれ変わりました。*1
桜の名所として有名となったこのころには、花見のときには、東武線浅草駅から幸手駅まで、臨時電車が出て、露天商が軒を連ね小屋掛けをし芝居などの興行も行われ、幸手の町中には検番があり芸者を呼ぶ人たちもいました。芸者衆による観桜会流し踊りも行われました。*1*2
現在も、花見の時期になると、堤には露店が並びます。