上村敏彦東京花街・粋な街街と暮らし社2008
粋な街 白山三業地

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白山に三業地を開設するために中心的役割を果たしたのは秋本鉄五郎であった。秋本は、八千代町で酒屋と居酒屋を兼業していたが、日露戦争の頃、居酒屋を改造して料理屋「金万」を開業。これが大繁盛した。当然、お座敷ホステスが必然的に要求され、神楽坂や四谷荒木町、下谷、湯島天神などの花柳界から芸妓を招いた。しかし、これでは不都合なので、この地に花街の設立を計画し、土地の発展を思いたった。

埋立地に発展した芝浦の花街

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この地は遠浅の砂地が広がっていたため、潮干狩りを楽しむ客や 芝明神辺りからの遊客を相手に新鮮な魚を食べさせる茶店や料理屋が江戸後期に盛んであった。そして明治14年頃には、 金杉新濱町の西端(現芝浦1-4)本芝3~4丁目(現芝4丁目の第一京浜道路の南)に料亭」「大野屋」、割烹「見晴亭」、温泉旅館「芝浦海水浴」、料亭「大光館」、鉱泉浴場兼料亭「芝濱館」、料亭「いけす」、鳥料理の「かめや」、料亭「海老徳」などが開業し、 周辺には多くの待合もできた。

丸善の裏手にあった日本橋花柳界
P.105 日本橋芸者の起源は古い。「女芸者の時代」によれば、「妓者呼子鳥(げいしゃよぶこどり)」に、常磐津の名取芸者「文字たみ」が平松町(現高島屋辺り)にいたことが書かれており、その頃に懐石料理店や貸座敷料理店などもいくつかあったようである。後に天保の改革で岡場所が潰されて深川芸者の大半が柳橋に住み替えた時に、芳町や日本橋にも流れて来たという。 ・旧見番の位置の記載。
立会川沿いにあった西小山花柳界

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西小山花街は、立会川の両岸300メートルの範囲にあった。

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西小山花柳界の全盛は昭和10年前後だった。料亭・待合が四十五軒、芸妓置屋が四十二軒、芸妓は芸者と半玉合わせて120人がいたという。太平洋戦争が始まると戦時体制が強化され、料亭・待合も営業停止となった。戦災でかなりの被害を受けた花街は、戦後の混乱が落ち着いた同25年に5軒の料亭から再出発した。新たに二業地組合を設立し、同31(1956)年には20軒まで増加したが、戦前の勢いは失われていた。

神田川沿いの新花街・中野新橋
P.184-P.186 以前は神田川沿いに紅灯が並び、三味線の音が聞こえていた風情も失われ、現在営業している料亭も「亀太川」だけになってしまった。 三業組合が信奉した悠池弁天社がカーサアルハムブラマンション(本町3-8ー5)脇にポツンと建っている。花街の範囲は本町三丁目の2~11番地までと本町5丁目の2~6番地で、本郷氷川神社手前までであった。 昭和四十七年発行の「接待手帳夜の街昼の街」(講談社)には、「昭和三年、地元の大地主が田んぼのど真ん中にデンと建てた亀太郎という料亭が、中野新橋そもそものはじまりである。その頃は、雨が降れば道路はヒザまでつかるという湿地で、芸者は新宿十二社から借りてきたという。」とある。この頃の料亭には「寿楽」「とんぼ」「曙」「春日井」「紀文」「一直」「安の井」「恵比寿家」「豊年」「千鳥」など四十三軒が営業していた。