上村敏彦 東京花街・粋な街 街と暮らし社 2008

四谷大木戸の花街

P.179 昭和2年の「全国芸妓同盟会総員名簿」によると、大木戸芸妓組合事務所は旧永住町36番地。(現ホテルニュー長良川辺り)にあり、置屋は32軒あった。 この花街は、荒木町花街と新宿の遊廓やカフェー街に挟まれた格好で、隠れ家的な遊び場として知られていた。 戦前のの昭和15年当時の様子をたどってみると、新宿シネマ(現野村不動産新宿ビル・四谷4-28)の裏(北側)に料理屋「自慢荘」があり、この裏に待合「住吉」「みなと」「富田家」が並んでいた。東には、崖沿いに「和楽」「清月」など待合が7,8軒ズラリと軒を連ねていた。 P.180 現在も営業を続けているのは、「多満川」のみで、他はマンションや駐車場になってしまっている。「多満川」から北へ行った突き当りにあるマンション「新宿御苑」は、1階部分は料亭の名残を感じさせる建物で、石塀に囲まれている。

伝統の芸を誇る新橋花柳界

呉竹の根岸の里に咲いた花街

P.135 根岸の三業地が許可されたのは大正10(1922)年のことで、地元の矢野弦吉、伊木勝太郎ら数人が尽力し、2000坪の指定地開設にこぎつけた。周りは寺町で名所といえば御行の松くらいで、上野池之端や下谷の花街は上野のお山や不忍の池があったが、根岸は景色を眺めながら遊ぶ場所ではなかった。むしろ通人の隠れ家遊び場所として流行った花街であった。 P.136 客筋は根岸、金杉、坂本など近隣の旦那衆が多く、人力車で遊びに来る者もいた。 往時の面影を残す「浜本」という料亭だったお宅。

蒲田花柳界と蒲田音頭

P.231 ・旧見番があった場所にある2階建ての建物。 ・待合の雰囲気が漂う建物。

神田川沿いの新花街・中野新橋

P.184-P.186 以前は神田川沿いに紅灯が並び、三味線の音が聞こえていた風情も失われ、現在営業している料亭も「亀太川」だけになってしまった。 三業組合が信奉した悠池弁天社がカーサアルハムブラマンション(本町3-8ー5)脇にポツンと建っている。花街の範囲は本町三丁目の2~11番地までと本町5丁目の2~6番地で、本郷氷川神社手前までであった。 昭和四十七年発行の「接待手帳夜の街昼の街」(講談社)には、「昭和三年、地元の大地主が田んぼのど真ん中にデンと建てた亀太郎という料亭が、中野新橋そもそものはじまりである。その頃は、雨が降れば道路はヒザまでつかるという湿地で、芸者は新宿十二社から借りてきたという。」とある。この頃の料亭には「寿楽」「とんぼ」「曙」「春日井」「紀文」「一直」「安の井」「恵比寿家」「豊年」「千鳥」など四十三軒が営業していた。

立会川沿いにあった西小山花柳界

P.164 西小山花柳界の全盛は昭和10年前後だった。料亭・待合が四十五軒、芸妓置屋が四十二軒、芸妓は芸者と半玉合わせて120人がいたという。太平洋戦争が始まると戦時体制が強化され、料亭・待合も営業停止となった。戦災でかなりの被害を受けた花街は、戦後の混乱が落ち着いた同25年に5軒の料亭から再出発した。新たに二業地組合を設立し、同31(1956)年には20軒まで増加したが、戦前の勢いは失われていた。

丸善の裏手にあった日本橋花柳界

P.105 日本橋芸者の起源は古い。「女芸者の時代」によれば、「妓者呼子鳥(げいしゃよぶこどり)」に、常磐津の名取芸者「文字たみ」が平松町(現高島屋辺り)にいたことが書かれており、その頃に懐石料理店や貸座敷料理店などもいくつかあったようである。後に天保の改革で岡場所が潰されて深川芸者の大半が柳橋に住み替えた時に、芳町や日本橋にも流れて来たという。 ・旧見番の位置の記載。

埋立地に発展した芝浦の花街

P.213
この地は遠浅の砂地が広がっていたため、潮干狩りを楽しむ客や 芝明神辺りからの遊客を相手に新鮮な魚を食べさせる茶店や料理屋が江戸後期に盛んであった。そして明治14年頃には、 金杉新濱町の西端(現芝浦1-4)本芝3~4丁目(現芝4丁目の第一京浜道路の南)に料亭」「大野屋」、割烹「見晴亭」、温泉旅館「芝浦海水浴」、料亭「大光館」、鉱泉浴場兼料亭「芝濱館」、料亭「いけす」、鳥料理の「かめや」、料亭「海老徳」などが開業し、 周辺には多くの待合もできた。

粋な街 白山三業地

P.140
白山に三業地を開設するために中心的役割を果たしたのは秋本鉄五郎であった。秋本は、八千代町で酒屋と居酒屋を兼業していたが、日露戦争の頃、居酒屋を改造して料理屋「金万」を開業。これが大繁盛した。当然、お座敷ホステスが必然的に要求され、神楽坂や四谷荒木町、下谷、湯島天神などの花柳界から芸妓を招いた。しかし、これでは不都合なので、この地に花街の設立を計画し、土地の発展を思いたった。