松川二郎全国花街めぐり誠文堂1929
松岸

その一すぢ青い水線の上にポッカリと、宛(さなが)ら蜃気楼(しんきろう)のごとく一大楼閣の浮き上がってくるのを望んだとき、「まるで繪(ゑ、かい)のやうだね」「(まるで)龍宮といった態(かたち)だね。」、誰しもそう言って歓喜のこえを放つのである。

浅草
主な料理待合 ここの料理店は、草津、一直(なほ)、松島、大金を俗に「四軒」と称(とな)えて、代表的料亭とされていた。これに萬梅(まんばい)が加わって元五軒茶屋と呼ばれたのが一軒減って四軒になったのであるが、一直、草津はもともと宴会向きの家で、松島は震災前からすでに格が落ちたと伝えられ、」ひとり田圃の大金のみがわづかに「古い浅草の、たそがれのような落ち着きと雅びとをみせてい」たが、それも今はなくなって屋号だけは同じ名のがあるが、以前のそれとはにてもにつかない家である。
向島
P.106 向島という土地は、元来東京から遠出で遊びに行くところで、向島芸妓はその遠出の客の座敷に招ばれて徒然を取り巻くために生まれたものだ。 此処には、向来(きょうらい)の向島芸者の外に、あとから生まれた安直主義の秋葉芸者なる一派があり、組合も「向島」「向島東三業」「墨田二業」等、三つにも四つにも分かれて、甚だややこしい花街であったが、昭和3年の暮れ頃からごたごたを起こし、昭和4年1月遂に芸妓屋、料理屋、待合を各々横断して「向券」「新券」の二派に分離するに至った。
新橋
P.17 新橋の花街は元は烏森と一つの花街で、京橋と芝の区界である「新橋」を真ん中に、煉瓦地芸者・南地芸者と芸者街は二つに分かれていたが、出先きは、全く共同で、あたかも今日の下谷池の端と同じような態であったのが、大正11年分離して「新橋」及び「烏森」あるいは「新橋南地」の2花街となったものである。
四谷大木戸
P.80 ここに花街のできたのは大正11年、東京では一番新しい花街であるが、、そこへ丁度彼の大震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて俄然膨張したもので、世の中は何が幸ひになるかかわったものではない。 現在芸妓屋 三十四軒 料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)。