松川二郎全国花街めぐり誠文堂1929
青梅

青梅の花街
花街というほど一廓に集中していないが、氏神の住吉神社を中心として、その周囲に芸者屋及び料理屋の多くが散在し、青梅駅から遠くも四五町の範囲で格別車や自動車の御厄介になる必要はない。

主なる料亭
魚久(うおきゅう)と寿々喜家(すずきや)は共に三層楼で洋食を兼ねている。梅月は駅の直前にあるので便利。森田屋は諸事お手軽。

下仁田

P.226
旅館:下仁田館、新松原、小松屋、常盤館、等。
戸数500ぐらいの土地で料理店(甲種)32軒、芸者が50名近くもいると言うのだから、この方面では、なかなか発展しつつある町であることを想像するに難くなかろう。前掲の旅館の中で、こ小松屋を除いた他はいずれも内芸者(うちげいしゃ)を置いているし、専門の芸者屋も山口楼、旭楼、花月楼と3軒まである。

松岸

その一すぢ青い水線の上にポッカリと、宛(さなが)ら蜃気楼(しんきろう)のごとく一大楼閣の浮き上がってくるのを望んだとき、「まるで繪(ゑ、かい)のやうだね」「(まるで)龍宮といった態(かたち)だね。」、誰しもそう言って歓喜のこえを放つのである。

浅草
主な料理待合 ここの料理店は、草津、一直(なほ)、松島、大金を俗に「四軒」と称(とな)えて、代表的料亭とされていた。これに萬梅(まんばい)が加わって元五軒茶屋と呼ばれたのが一軒減って四軒になったのであるが、一直、草津はもともと宴会向きの家で、松島は震災前からすでに格が落ちたと伝えられ、」ひとり田圃の大金のみがわづかに「古い浅草の、たそがれのような落ち着きと雅びとをみせてい」たが、それも今はなくなって屋号だけは同じ名のがあるが、以前のそれとはにてもにつかない家である。
向島
P.106 向島という土地は、元来東京から遠出で遊びに行くところで、向島芸妓はその遠出の客の座敷に招ばれて徒然を取り巻くために生まれたものだ。 此処には、向来(きょうらい)の向島芸者の外に、あとから生まれた安直主義の秋葉芸者なる一派があり、組合も「向島」「向島東三業」「墨田二業」等、三つにも四つにも分かれて、甚だややこしい花街であったが、昭和3年の暮れ頃からごたごたを起こし、昭和4年1月遂に芸妓屋、料理屋、待合を各々横断して「向券」「新券」の二派に分離するに至った。