根岸省三高崎郷土花街史P.51-P.52,P.61吾妻書簡1981
倉賀野女郎衆というもの

P.76
倉賀野宿の遊女屋の女郎が倉賀野宿のあった中山道に太鼓橋を作ったことは有名な話である。太鼓橋は初め板橋で、流し長さ弐間三尺、幅九尺で、一名「めがね橋」ともいい、石をうまく組み合わせて半円形にして石橋を中山道に作ったもので、このあたり昔は倉賀野城の遠がまえで、大きな堀割があったので、この上に掛けられたのである。このとき、倉賀野宿の女郎が200両を出した。200両といえばこの時代では10両で首が飛んだというから大金であったが、享保3(1718)年に大水のために橋が流出したのをみて、幕府の道中奉行に願い出て作ったもので、享保3年の8月には完成した。そのとき寄進した女郎の名がこの橋桁に彫られてあった。

柳川町(芸妓屋街)

P158
割烹前田屋。
(芸妓屋も屋号でしるしたのもあるが、その他氏名のあるものもおおかた芸妓屋である。)

高崎宿の料亭

P.182
明治となってから産業が発達し、高崎でも養蚕業、製糸業、絹織物が軌道に乗ってきたのと、明治五年に歩兵第三連隊の第一大隊が廃城になった高崎城内に置かれるようになり、今までの腰掛茶屋や旅籠屋ではどうもスムーズでないため、料亭が作られるようになった。
P.183
喜多町、寄合町、本町を中心として花街も発展し、さらに柳川町を中心とした乙種料理店街の拡充によって、この方面は繁栄を始めた。乙種料理店というのは従来の料理店を甲種とし私娼の宿を乙種料理店として区別したもので、乙種料理店が通称だるま屋と言われた私娼街である。

柳町かいわい地図(旧乙種料理店街)

P.235
高崎電気館裏:「紅つる」